青春の日のダリヤ
〝おとな〟の男に
こうして、〈私の新宿〉について、中学生時代に、小田急から省線(当時は、鉄道省の線だから省線電車だった)に乗り換えて、巣鴨の府立五中まで通学した時から、四十年の変遷を書いていたら、いつの間にやら、けっこうな量になってしまったようである。
思いついて、「週刊新潮」誌(10・16付)をひろげてみたら、山口瞳氏の「男性自身」が、六一四回の連載になっている。
中学二年生の時に、校友会雑誌に原稿を書いてから、どうやら、私も、四十年以上も、ペンを握りつづけてきたようだ。
だから、書きつづけている分には、山口さんの六百回に迫ることもできるだろうが、デスクの浅見君に、「ここは旅行記のハズなんです。依頼した原稿がたまってるから、ソロソロおりて下さいよ」と、イヤ味をいわれたので、ひとまず、連載をやめることにしよう。
気がついてみると、新宿と私の人生との関わり合いを書きながらも、とうとう、芸者とホステ
スとが登場しなかった。不公平だから、サッと走り書きをしようか——。
私が、〝おとなの男〟になったのは、満二十歳の誕生日の夜だった。
中学を卒業して、浪人していた私は、仲の良かった五中の制服指定店の主人に頼んで、背広を作ってもらった。催促なしのある時払い、という約束だったから、もしかすると、あの三星洋服店に、借金が残っているかも知れない。
未成年のクセに、背広を着て一丁前のフリをした私は、好奇心に燃えて、〝おとなの世界〟にクビを突っこんでいった。
バー、カフェーと、ノゾき歩いた私は、「ナンダ、これだけのものか」と、その好奇心はすぐ、満たされてしまった。
それでも、渋谷の百軒店のカフェーのことは、まだ覚えている。いまの同伴喫茶のように、背もたれが高く、店内は薄暗くボックスの中は、そばに近寄らねば、さだかには見極められないほどだった。
私は、そこではじめて、ペッティングを経験した。まだ、少年らしい潔癖感が残っていたらしく、〝汚れ〟た手を、ビールで洗って、テーブルの下をビショビショにしたものだった。
一張羅の背広のズボン、前ぼたんのあたりが、女給サンの手に塗っていた白粉で、白ッぽくなっていたのを、翌朝、母親にみつかって、叱られたことも、記憶が鮮やかだ。
こうして、バーやカフェーを知ったあと、それでもまだ、私は、遊郭には行かない。