しかし、私はこの小笠原との会見記は、雑誌『日本』の「近代企業に巣喰う暴力」と題する原稿には書いた。インテリ・ヤクザの
言い分をのせたかったからである。
私は読売新聞の記者であり、その記者としての取材活動で知り得たことだから、新聞に書かないで、他社の雑誌に書いたことを非難されるかも知れない。しかし、事件が新聞紙上で終ったのち、その内容をより詳細に掘り下げて追うのが、雑誌ジャーナリズムだ。この場合、新聞記者がペンネームで新聞の用済みになった材科を使って、原稿を書くことは、サイドワークとして慣行上認められていることだ。社名を冠して、読売記者として執筆することには、会社の許可が必要だが、ペンネームの場合には黙認されていることだ。
私はそのつもりで、ただ、より良く新聞と雑誌の発行のタイミングを合わせたにすぎない。つまり、『日本』の発売日が七月二十五日と聞いた。全国の店頭一斉発売が二十五日なら、二十三日には雑誌が刷り上って、チラホラ街へ流れはじめるころだ。
雑誌が街へ出はじめれば、その中の小笠原会見記も人目に止まろう。その前に、新聞で小笠原会見記を発表すれば、もはや、雑誌の会見記は新聞のカス(余った材料)になるワケだから、サラリーをくれている新聞社への申訳けは立つと考えたのである。
同時に、この雑誌の発売日が、私の小笠原に対する〝自首待ち〟の期限だった。私とて小笠原を永久にかくまうつもりではなく、記者としての取材上の一時的なものだから、最大限の期限を二十五日と決めたのである。彼は自首を「一週間か十日待ってくれ」といった。だから、彼が自首すると連絡してこなければ、遅くも二十二日には「小笠原はこういう事情で、私が旭川にしま
っておいた。住所はここだから、すぐ捕えてくれ」と、警視庁へ連絡する予定だったのだ。もちろん、その前に、彼が上京してきて、逮捕の特ダネと逮捕数時間前の会見記の特ダネと、二本の記事で読売の紙面を飾れるものと信じていた。ところが、その期限である二十二日に、私が逮捕されたのだから皮肉なものである。
十二日の小笠原北海道行、十五日の安藤逮捕、十七日の花田逮捕、十九日のフクの連絡と、めまぐるしく日が経って、二十日の日曜日のことだった。
わが事敗れたり
日曜日は私の公休日だ。家で芝居のためのガリ版刷りなどをしていると、私のクラブの寿里記者から電話がきて、「大阪地検が月曜日の朝、通産省をガサって、課長クラスを逮捕するが、原稿を書こうか」といってきた。夜の八時すぎごろだ。寿里記者一人にまかせておいても良かったのだが、何故か私は「今すぐ社へ行くから待っていてくれ」と答えて、出勤した。翌朝の手入れのための手配をとり終って、フト、デスク(当番次長)の机の上をみると、本社旭川支局発の原稿がきている。何気なく読んでみると、外川材木店にいた男を小笠原と断定して捜査している、という原稿だった。
「我が事敗れたり」と私は覚った。事、志と反して、ついにここにいたったのだ。私はそれでも当局より先に、事の破れたのを知ることができた幸運に、「天まだ我を見捨てず」とよろこんだ。