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新宿慕情 カバー裏表紙+腰巻裏 収録内容案内

新宿慕情 カバー裏表紙+腰巻裏
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裏表紙

腰巻・ウラ

新宿慕情
四十年以上もの〈新宿〉との関わり合いを語りながら、著者の〈社会部記者魂〉ともいうべき、頑固な人生観を述べていて、飽きさせない。軽い筆致でたのしく、人生を説いている。

事件記者と犯罪の間
昭和三十三年、著者は、安藤組による「横井英樹殺害未遂事件」を、読売社会部の司法記者クラブ詰め主任として、取材しながら、大スクープの仕掛人として失敗。退社して、犯人隠避容疑で逮捕された。

最後の事件記者
著者の読売社会部時代の、数々のエピソードを綴りながら、大新聞の内部からの、新聞・新聞記者とはなにか、と問いかけている。自伝的構成になる著者の「新聞と新聞記者論」。

事件記者と犯罪の間 p.150-151 オレと立松と萩原と尽きせぬ悪縁だよ

事件記者と犯罪の間 p.150-151 「立松が逮捕された時には、オレがやはりこうして付添っていったっけナ」「そして、今度はオレが警視庁キャップで三田の付き添いか」
事件記者と犯罪の間 p.150-151 「立松が逮捕された時には、オレがやはりこうして付添っていったっけナ」「そして、今度はオレが警視庁キャップで三田の付き添いか」

事件記者と犯罪の間(我が名は悪徳記者)

昭和三十三年七月、著者は、安藤組による「横井英樹殺害未遂事件」を、読売社会部の司法記者クラブ詰め主任として、取材しながら、大スクープの仕掛人として失敗。退社して、犯人隠避容疑で警視庁に逮捕された。

二十五日間の留置場生活ののち、保釈で出所した著者は、文芸春秋誌に、そのてん末を百五十枚の長篇としてまとめて発表した。

これは、読者に大きな反響を呼んで同年の文春読者賞に入賞し、さらに、東宝で映画化された。

その名は悪徳記者

社旗よさらば!

その日は、毎日通りなれている日比谷から桜田門へのお濠端が、まぶしいほどに明るかった。私にとっては、その景色もしばらくの見納めだ。自動車の先の赤い社旗が、お濠を渡る夏の風にハタめく。

フト、何時かもこんな情景があったゾ、と私は想い起していた。去年の十月、私が司法記者クラブのキャップになって間もなく、売春汚職事件にからまる立松事件の時だった。事件の捜査を担当した東京高検から、記者クラブの私に対して、「立松記者を出頭させてもらいたい」と要求があり、私が付き添ってこの通りを走っていたのだった。

「立松が逮捕された時には、オレがやはりこうして付き添っていったっけナ」

「そして、今度はオレが警視庁キャップで三田の付き添いか」

「ハッハッハ。〝因果はめぐる小車〟だなあ。オレと立松と萩原と、尽きせぬ悪縁だよ。ハッハッハ」

事件記者と犯罪の間 p.154-155 まだヤマ(犯罪事実)をゲロ(自供)していないからだ

事件記者と犯罪の間 p.154-155 警視庁での調べの間、私は捜査官に「どうしても納得がいかない」と責められた。何故、私が十五年の記者経歴を縁もゆかりもない一人のグレン隊のために、棒に振ったか? という疑問である。
事件記者と犯罪の間 p.154-155 警視庁での調べの間、私は捜査官に「どうしても納得がいかない」と責められた。何故、私が十五年の記者経歴を縁もゆかりもない一人のグレン隊のために、棒に振ったか? という疑問である。

出所して自宅へ帰った私は、まず二人の息子たちを抱き上げてやった。ことに、逮捕と同時に

行われた家宅捜索から、早くも敏感に異変をさとり、泣き出してしまったという、三年生の長男には、折角の夏休みの大半を留守にしたことを謝ったが、新聞雑誌に取上げられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

無職の一市民として、逮捕、警察の調べ、検事の調べ、拘禁された留置場の生活、手錠、曳縄など、いわゆる被疑者と被告人との経験を持ったということは、私が新聞記者であっただけに、又と得難い貴重な教訓であった。

失職した一人の男として、今、感ずることは、「オレも果してあのような記事を書いたのだろうか」という反省である。私の、長い記者生活は、それこそ何千本かの記事を紙面に出しているのであるが、私の記事の中に、あのような記事があったのではないか、ということである。

私は確信をもって、ノーと答え得ない。自信を失ったのである。それゆえにこそ、私は〝悪徳〟記者と自ら称するのである。一人の男が相手の男を拳銃で射殺せんとした——殺人事件である。だが、これが戦争という背景をもち、戦闘という時の経過の中で、敵と味方という立場であれば、話は別である。しかし、その〝射殺〟という事実には間違いはない。背景と時の経過と、立場なしに取上げられたのが、私の「犯人隠避」であった。その限りでは、私に関する報道には間違いがなかったのである。ところが、それに捜査当局の主観がプラスされてくると、もはや事実ではなくなってくるのである。

警視庁での調べの間、私は捜査官に「どうしても納得がいかない」と責められた。これが、「納得がいかない——理解してやろう」という好意で出てくる場合と、「納得がいかないのは、まだヤマ(犯罪事実)をゲロ(自供)していないからだ」という、下品な岡ッ引根性から出てくるものと、二通りあったのである。ところが、検察庁での調べになると「犯罪の構成要件さえガッチリと固めておけば良い」という態度である。納得がいくもいかないも、被疑者の心理状態など、全くお構いなしである。

捕えたものは起訴せねば……、起訴したものは有罪にせねば……の、ただそれだけのようである。もっとも、検事個人の人間的差はあるのだろうが、私は、ここに、司法官僚と内務官僚との宿命的対立の基盤になっている、何ものかを感じた。

何が納得がいかないか? これは調べが進むと同時に、捜査官の胸中に浮んできた疑問であった。何故、私が十五年の記者経歴を縁もゆかりもない一人のグレン隊のために、棒に振ったか? という疑問である。

調べの進展と同時に、私はグレン隊安藤組と過去において、何の関係もなかったことが明らかになった。事実その通りである。またどうしてもという義理ある人の依頼もないことが判ってきた。脅かされたという事実もなければ、ましてや、金で誘われたこともないと判明した。しかし、本人は勤続十五年の一流新聞を辞職している。末は部長となり、局長となると目された(?)人で、腕は立つ(?)のである。それが一ゴロンボーのために、名誉と地位と将来とを棒に振った

のである——納得がいかないのも無理もない。

事件記者と犯罪の間 p.156-157 「棒に振った?グレン隊と心中した?」

事件記者と犯罪の間 p.156-157 私は捜査官にいった。「棒に振ったなんてサモシイことをいいなさんな。オレは記者としての仕事に、職どころか、生命さえ賭けているンだ。辞職で済めば安いものサ」
事件記者と犯罪の間 p.156-157 私は捜査官にいった。「棒に振ったなんてサモシイことをいいなさんな。オレは記者としての仕事に、職どころか、生命さえ賭けているンだ。辞職で済めば安いものサ」

調べの進展と同時に、私はグレン隊安藤組と過去において、何の関係もなかったことが明らかになった。事実その通りである。またどうしてもという義理ある人の依頼もないことが判ってきた。脅かされたという事実もなければ、ましてや、金で誘われたこともないと判明した。しかし、本人は勤続十五年の一流新聞を辞職している。末は部長となり、局長となると目された(?)人で、腕は立つ(?)のである。それが一ゴロンボーのために、名誉と地位と将来とを棒に振った

のである——納得がいかないのも無理もない。

私は答えた。「棒に振った? グレン隊と心中した? 飛んでもない! オレは棒に振ったり、心中したなんて思ってみたこともないよ」と。

私は自分の仕事に責任を持ったのである。私とて、大好きな読売新聞を、こんな形で去りたいと願ったことはない。もちろん、胸は張り裂けんばかりに口惜しいし、残念である。ことに、過去が輝かしいだけに、その哀別離苦の念はことさらであった。

出来ねばボロクソ商売だ

だが、私は十五年の記者生活で、この眼で見てきて知っている。落伍していった先輩、後輩たちの悲しい姿を。俗にいう通り、「新聞社は特ダネを抜いて当り前、出来なくてボロクソ」と。出来ても当り前なのである。

新聞という公器としての性格と、近代企業としての性格が重なって、新聞社はこのように冷酷非情なものなのである。〝出来なければボロクソ〟なのである。冷たい男と知りながら、血道をあげて、すべてのものを捧げつくして去っていった女、しかし、それでも女はその非情な男を慕わざるを得ない——これが新聞社と新聞記者の間柄である。

私は、自分の、新聞記者としての取材活動が失敗に終ったことを知った。〝出来なければボロクソ〟である。私は静かに辞表を書いた。逮捕され、起訴されれば、刑事被告人である。刑事被

告人の社員は、社にとってはたとえどんな大義名分があろうとも、好ましいことではない。私は去らなければならないのだ。

私は捜査官にいった。「棒に振ったなんてサモシイことをいいなさんな。ほかの奴はどうあろうと、オレは記者としての仕事に、職どころか、生命さえ賭けているンだ。辞職で済めば安いものサ」

どうも抽象論が長きに過ぎたようである。もう少し具体的に、私の〝悪徳〟ぶりを語らねばならない。

大東亜戦争がすでにたけなわとなっていて、我々は半年の繰上げ卒業だった。昭和十八年秋だった。朝日、読売、NHKのアナウンサーと、三社を受験した。試験成績には充分な自信があったが、朝日は「残念ながら貴意に添い難く…」の返事だった。怒った私は、盛岡出身の伊東圭

一郎出版局長(先ごろ亡くなられた)に頼んで調べて頂いたところ「試験成績は合格圏内だが、出身校が日大芸術科なので……」と、いい難そうに説明されたのである。激怒した私は数寄屋橋の上から、朝日新聞社をハッタとばかりにニラミつけて、「畜生め、あとで口惜しがるような大記者になって見せるゾ!」と、誓ったものだった。

(写真キャプション)まさに〝歴史的〟記念品ともいうべき辞令二葉

事件記者と犯罪の間 p.158-159 松木勇造次長の教育は獅子のそれであった

事件記者と犯罪の間 p.158-159 提稿を受けた松木次長は、黙って朱筆を取ると、私の大作を読みはじめた。ついに読み終った原稿は朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。
事件記者と犯罪の間 p.158-159 提稿を受けた松木次長は、黙って朱筆を取ると、私の大作を読みはじめた。ついに読み終った原稿は朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。

朝日、読売、NHKのアナウンサーと、三社を受験した。試験成績には充分な自信があったが、朝日は「残念ながら貴意に添い難く…」の返事だった。怒った私は、盛岡出身の伊東圭

一郎出版局長(先ごろ亡くなられた)に頼んで調べて頂いたところ「試験成績は合格圏内だが、出身校が日大芸術科なので……」と、いい難そうに説明されたのである。激怒した私は数寄屋橋の上から、朝日新聞社をハッタとばかりにニラミつけて、

「畜生め、あとで口惜しがるような大記者になって見せるゾ!」と、誓ったものだった。今戦い敗れた私の姿をみれば、当時の朝日は賢明だったのかも知れない。

読売とNHKからは採用通知がきた。読売は約五百名の受験者から十名を採用した。一番は慶応出身で『三田新聞』の経験があった青木照夫(現大阪読売社会部次長)で、私は二点の差で二番だった。

十月一日、朝から入社式があったが、帰省していた私は、入社第一日に遅刻して、正力社長から単独で辞令を頂いた。当時の読売は朝毎の牙城に迫ろうとして、追う者の活気にみちあふれていた。

十名の新入社員は、現在、『週刊アサヒ芸能』の社長をしている徳間康快が整理部へいったほか、すべて社会部へ配属された。入社第一日に、何も教えられずに、イキナリ亡者原稿を書かされたのには驚いた。

私たちの初年兵教官は、次長の松木勇造現労務部長であった。この新入社員担当次長の教育はわが子を千仭の谷底に落す獅子のそれであった。

入社第二日、戦争中の代用品時代のため、新宿三越で「竹製品展示会」があって、松木次長に

取材を命じられた。私は社旗ひるがえる車に、一人で乗って感激の取材を行った。帰社するや、私は書きも書いたり、ザラ原(原稿用紙)で七十枚の大作に仕上げたのだった。

提稿を受けた松木次長は、黙って朱筆を取ると、私の大作を読みはじめた。左手で原稿のページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読み終った原稿は朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。

呆然と、松木次長の背後で立ちつくしている私に、彼はふりむきもせず、声一つかけずに次の原稿に眼を通しはじめた。完全な私の黙殺なのである。そこへ掃除のオバさんがきて私の労作は大きなクズ籠にあけかえられ、アッと思う間もなく、ツツーと反古として持ち去られてしまったのである。この厳しい教育が、それからの私の記者生活を決定づけたのであった。新聞の冷たさもまた、同時に思い知らされたのである。

やがて、私も青木も出征の日がきた。二人は東京駅で固い別れの握手をして、「オイ、大本営報道部で会おうナ」といった。身に軍服をまとおうとも、新聞記者でいたかったのだ。

八月十五日。私たちは意外にも北支から満州へ転進して、満ソ国境の師団主力へ追及できず、新京にいた。十五日未明、有力なるソ軍戦車集団が、新京南郊外へ来襲するというので、前夜から徹夜で陣地構築に努めていた。今度こそ最後だと思った。ソ軍戦車へは一兵が一台、五発の手榴弾を抱いて飛びこむだけの戦法だからだ。

その前夜、読売新京支局を通じて、一言別れの言葉を本社へ托そうとしたが、敗戦前夜、支局

は電話のコーリングが、空しく鳴るだけだ。タコツボの中にジッと身を沈めて、ソ軍戦車のキャタピラの響きをききとろうとするのだが、耳を打つものは、赤い社旗のハタめきばかりである。社旗と思ったのは、暗夜に小隊長の位置を示す「祝出征、正力松太郎」の墨痕も鮮やかな日章旗だったのだ。

事件記者と犯罪の間 p.160-161 〝魔のシトウリナヤ炭坑〟の奴れい労働

事件記者と犯罪の間 p.160-161 塚原さんは大隊長としての責任罰で、土牢にブチ込まれた。寒暖計温度零下五十二度という土地で、一日に黒パン一枚、水一ぱいしか与えられない土牢である。
事件記者と犯罪の間 p.160-161 塚原さんは大隊長としての責任罰で、土牢にブチ込まれた。寒暖計温度零下五十二度という土地で、一日に黒パン一枚、水一ぱいしか与えられない土牢である。

今度こそ最後だと思った。ソ軍戦車へは一兵が一台、五発の手榴弾を抱いて飛びこむだけの戦法だからだ。
その前夜、読売新京支局を通じて、一言別れの言葉を本社へ托そうとしたが、敗戦前夜、支局

は電話のコーリングが、空しく鳴るだけだ。タコツボの中にジッと身を沈めて、ソ軍戦車のキャタピラの響きをききとろうとするのだが、耳を打つものは、赤い社旗のハタめきばかりである。社旗と思ったのは、暗夜に小隊長の位置を示す「祝出征、正力松太郎」の墨痕も鮮やかな日章旗だったのだ。

人情は紙風船か

こうした新聞記者への最後の別れも、正午の玉音放送によって、再びつながれた。心は早や東京へと飛んで、「再びペンを握れる」という期待に燃え上っていたのだ。

部隊は武装解除されて、シベリアへと送られた。だが、私は「読売新聞シベリア特派員」だったのである。新京の日本人家屋から拾ってきた日用日露会話本で、輸送間の警戒兵にロシア語を習った。沿線の風景をはじめ、見聞するすべてを頭の中にメモした。ロシア語はたちまち上達して、取材は八方へとひろげられた。

作業に出ると、警戒兵をダマクラかして、一緒に炭坑長や現場監督や坑夫たちの家庭へ遊びに行った。身は捕虜であろうとも、腹に巻いた日の丸と社旗とは、私を記者として元気づけてくれた。あの地獄のような生活の中で、私だけは口笛でも吹きたいような明るさを忘れなかった。

軍隊と捕虜の生活の中から、人を信ずるという信念が生れてきた。今度の事件で、全く何の関係もないのに、事件の渦中に捲きこんでしまった人、塚原勝太郎氏はこの地獄の中で私の大隊長

だった人である。私は彼を信じ、彼もまた私を信じて、普通ならば叛乱でも起きそうな、〝魔のシトウリナヤ炭坑〟の奴れい労働を乗り切ったのである。

細い坑木をつぶしてしまう落盤、たちこめる悪ガス、泥ねいの坑床、肩で押し出す一トン積の炭車、ボタの多い炭層——こんな悪条件の中で、「スターリン・ブリカザール」(スターリンの命令だ)と、新五カ年計画による過重なノルマを強制される。もちろん、栄養失調の日本人に、そのノルマが遂行できる訳はなかった。そのたびごとに、塚原さんは大隊長としての責任罰で、土牢にブチ込まれた。寒暖計温度零下五十二度という土地で、一日に黒パン一枚、水一ぱいしか与えられない土牢である。こんな環境から生れた、人間の相互信頼の気持である。

七月十一日の夜、すでに床についていた塚原さんを叩き起した私は、「ある事件の関係者だが、四、五日あずかって頂けないだろうか」と頼んだ。塚原さんは何もいわず、何もきかずに、ただ一言「ウム」と引受けてくれたのである。これが小笠原を旭川に紹介してやるキッカケだった。そしてまたこの一言が、塚原さんが築地署の留置場へ二十三日もブチ込まれる「ウム」だった。

私が、二十一日の月曜日に、警視庁の新井刑事部長と平瀬捜査二課長とに、事情を説明したことがある。もちろん逮捕の前日だ。この時、新井刑事部長は笑った。

「キミ、そんなバカな。この忙しい世の中に、軍隊友達というだけで、そんなことを引受けるものがいるかネ。ヤクザじゃあるまいし」

新井さんには私は面識がなかった。しかし、彼の部下で新井さんを尊敬している警察官が、私 と親しかったので、噂はよく聞いて知っていた。

事件記者と犯罪の間 p.162-163 私を「反動読売の反動記者」と攻撃

事件記者と犯罪の間 p.162-163 警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。
事件記者と犯罪の間 p.162-163 警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。

「キミ、そんなバカな。この忙しい世の中に、軍隊友達というだけで、そんなことを引受けるものがいるかネ。ヤクザじゃあるまいし」
新井さんには私は面識がなかった。しかし、彼の部下で新井さんを尊敬している警察官が、私

と親しかったので、噂はよく聞いて知っていた。会ったところも、品の良い立派な紳士である。だが、残念なことには、新井さんには、こんな深い相互信頼で結ばれた友人を持った経験がないのではなかろうか。ヤクザの「ウム」とは全く異質の、最高のヒューマニズムからくる相互信頼である。私は出所後に風間弁護士のところで塚原さんに会った。私はペコリと頭を下げて、どうも御迷惑をかけて済みませんでしたと、謝ってニヤリと笑った。彼もまたニヤリと笑って、イヤアといった。そんな仲なのである。

話が横にそれてしまったが、こうして、私は人間としての成長と、不屈の記者魂とを土産に持って社に帰ってきた。

私の仕えた初代社会部長小川清はすでに社を去り、宮本太郎次長はアカハタに転じ、入社当時の竹内四郎筆頭次長(現報知社長)が社会部長に、森村正平新品次長(現報知編集局長)が筆頭次長になっていた。昭和二十二年秋ごろのことだった。

過去のない男・王長徳

帰り新参の私を、この両氏ともよく覚えていて下さって、「シベリア印象記」という、生れてはじめての署名原稿を、一枚ペラの新聞の社会面の三分の二を埋めて書かせて下さった。この記事はいわゆる抑留記ではなく、新聞記者のみたシベリア紀行だった。その日の記事審査委員会日報は、私の処女作品をほめてくれたのである。

この記事に対して、当時のソ連代表部キスレンコ少将は、アカハタはじめ左翼系新聞記者を招いて、「悪質な反ソ宣伝だ」と、声明するほどの反響だったが、やがて、サツ(警察)廻りで上野署、浅草署方面を担当した私は、シベリア復員者の日共党本部訪問のトラブルを、〝代々木詣り〟としてスクープして、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。

私は日共がニュースの中心であったころは、日共担当の記者であり、旧軍人を含んだ右翼も手がけていた。それが、日本の独立する昭和二十七年ごろからは、外国人関係をも持つようになってきた。つまり警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。

左翼ジャーナリズムは、私を「反動読売の反動記者」と攻撃したが、これは必ずしも当っていない。私は〝ニュースの鬼〟だっただけである。

私はニュースの焦点に向って、体当りで突込んでいった。私の取材態度は常にそうである。ある場合は深入りして記事が書けなくなることもあった。しかし、この〝カミカゼ取材〟も、過去のすべてのケースが、ニュースを爆撃し終って生還していたのである。今度のは、たまたま武運拙なく自爆したにすぎない。

そろそろ、手前味噌はやめにして、私の〝悪徳〟を説明しなければなるまい。

まずそのためには、王長徳という中国籍人と、小林初三という元警視庁捜査二課の主任を紹介

しよう。この二人も、小笠原の犯人隠避で、八月十三日に逮捕されている。

事件記者と犯罪の間 p.164-165 「そうです。私が上海の王です」

事件記者と犯罪の間 p.164-165 この王は、上海のマンダリン・クラブの副支配人という仮面をかむっていたリチャード・王という男で、青幇(チンパン)の大親分杜月笙(とげつしょう)と組んでいたギャンブル・ボスなのであった。
事件記者と犯罪の間 p.164-165 この王は、上海のマンダリン・クラブの副支配人という仮面をかむっていたリチャード・王という男で、青幇(チンパン)の大親分杜月笙(とげつしょう)と組んでいたギャンブル・ボスなのであった。

そろそろ、手前味噌はやめにして、私の〝悪徳〟を説明しなければなるまい。
まずそのためには、王長徳という中国籍人と、小林初三という元警視庁捜査二課の主任を紹介

しよう。この二人も、小笠原の犯人隠避で、八月十三日に逮捕されている。

私の代表作品の一つに、昭和二十七年十月二十四日から十一月六日までの間、十回にわたって連載された続きもの「東京租界」の記事がある。これは、独立直後の日本で、占領中からの特権を引続き行使して、その植民地的支配を継続しようとした、不良外人たちに対し、敢然と打ち下した日本ジャーナリズムの最初の鉄槌であった。

原四郎部長の企画、辻本芳雄次長の指導で、流行語にさえなった「東京租界」というタイトルまで考え出し、取材には私と牧野拓司記者とが起用された。牧野記者は文部省留学生でオハイオ大学に留学したほどの英語達者だったので、良く私の片腕になってくれた。そして、この記事をはじめとするキャンペーン物で、文芸春秋の菊池寛賞の新聞部門で、読売社会部が第一回受賞の栄を担ったのである。原部長以下の読売社会部の多くの人がそう思ったのであろうが、この菊池寛賞は、私は、私自身がとったのだと自負していたものである。

その第一回の記事に、「ねらう東洋のモナコ化、烈しい縄張り争い」と、国際バクチ打ちの行状がある。この時に登場を願ったのが、即ちこの王長徳である。つまり、東京租界を自分のシマ(縄張り)にしようと、三人の国際博徒の大物が争っている。その一人はアル・カポネの片腕、アメリカはシカゴシチーで東洋人地区の取締りをやっていた朝鮮系米人のジェイソン・リー。二人目は、フィリピンはマニラの夜の大統領といわれるテッド・ルーインの片腕、自称宝石商のモーリス・リプトン。どんじりに控えたのが、上海の夜の市長、〝上海の王〟だという情報だった。

牧野記者と二人で、この大物バクチ打ちの所在を探し、リーとリプトンとにはインタヴューすることができたが、〝上海の王〟はその所在さえつかめない。調べてみると、この王は、上海のマンダリン・クラブの副支配人という仮面をかむっていたリチャード・王という男で、青幇(チンパン)の大親分杜月笙(とげつしょう)と組んでいたギャンブル・ボスなのであった。

そしてこの青幇の幹部の一人が経営していた、銀座二丁目の米軍人クラブのVFWクラブにもぐりこんでいるというところまで突きとめたが、どうしても会えない。他の二人には会えたのに三人目が欠けたのでは面目ないと、考えこんでいる時、サツ廻りの上野記者が、「新橋に王という変った男がいますよ」と情報を入れてくれた。

話を聞いてみると、帆足、宮腰氏らの訪ソ旅行の旅費を出したとか、自由法曹団の布施弁護士は父親みたいな仲だとか、花村元法相とは「花ちゃん」という付き合いだとか、いろいろと面白い話が多い。そこで窮余の一策として、彼に会って、「貴方が上海の王といわれる有名なバクチ打ちか」と、当ってみたものだ。

すると、ハッキリ別人だということが調査して判っていたのに、意外にも彼はニコヤカにうなずきながら、「そうです。私が上海の王です。上海時代はビッグ・パイプとも仇名されていたので、このキャバレーにもその名をつけたのです」というではないか。

こうして「登録証を信ずると、十一歳の時にビッグ・パイプという名を持った国際バクチの大親分という、世にもロマンチックな話になる」と、皮肉タップリな記事となって紙面を飾った。

事件記者と犯罪の間 p.166-167 新聞記者の財産はニュース・ソース

事件記者と犯罪の間 p.166-167 六月十一日に横井事件が起きた翌日、王から私に電話がきて、「問題の元山に会いたいなら、会えるように斡旋しよう」という。私は即座に「会いたい」と答えた。
事件記者と犯罪の間 p.166-167 六月十一日に横井事件が起きた翌日、王から私に電話がきて、「問題の元山に会いたいなら、会えるように斡旋しよう」という。私は即座に「会いたい」と答えた。

これが私と王長徳との出会いのはじめであるが、〝過去のない男〟の彼は、朝鮮人とも北鮮育ちの中国人ともいわれるが、異国での生活の技術にか、とかく〝大物〟ぶりたいという癖のある男だった。金の話は常に億単位なのだから、国際バクチ打ちの〝身分〟を買って出たのも、彼の生活技術であろう。

特ダネこそいのち

ニュース・ソース

小林元警部補とは昭和二十七年から三十年の三年間、私が警視庁クラブにいた時に、彼が現職だったので知り合っていた。ところが彼は退職して、銀座警察の高橋輝男一派の顧問になってしまった。そのころも、銀座あたりで出会ったりしていたのだ。

高橋が死んでから、彼は〝事件屋〟になって王と近づいたらしい。今度の横井事件でも、王、小林、元山らが組んで蜂須賀家の債権取立てを計画したようだ。六月十一日に横井事件が起きた翌日、王から私に電話がきて、「問題の元山に会いたいなら、会えるように斡旋しよう」という。私は即座に「会いたい」と答えた。十三日の夜おそく、元山は王と小林に伴れられて私の自宅へ

やってきた。

元山との会見記は翌十三日の読売に出た。

週刊読売の伝えるところによると、新井刑事部長は部下を督励して、「新聞記者が会えるのに、どうして刑事が会えないのだ」と、叱りつけたそうである。しかし、この言葉はどだいムリな話で、新聞記者だからこそ会えたのであった。

この元山会見記は、同日朝の東京新聞の花形を間違えたニセ安藤会見記(木村警部談)と違って一応特ダネであった。しかし、私が司法記者クラブ(検察庁、裁判所、法務省担当)員でありながら、警視庁クラブの担当している横井事件に手を出したことが、捜査本部員をはじめ、他社の記者にいい印象を与えなかったようでもある。

私をしていわしむれば、誰が担当の、何処が担当の事件であろうとも、新聞記者であるならばニュースに対して貪婪でなければならないし、何時でも、如何なるものでも、ニュースをキャッチできる状態でなければならないのである。

新聞記者の財産はニュース・ソースである。「貴方だからこれまで話すのだ」「貴方だからわざわざ知らせるのだ」という、こういう種類の人物を、各方面に沢山もっていてこそその記者の値打ちが決るのである。誰でもが訊きさえすれば教えてくれること——これは発表である。誰でもが簡単に知り得ることは、これはニュースとしての価値が低いのは当然である。

例えば、両国の花火大会の記事は、ニュースではあるが、誰でもがこのニュースにふれること

ができる。公開されているニュースだからである。機会は均等である。

事件記者と犯罪の間 p.168-169 久し振りの快事件だというのに

事件記者と犯罪の間 p.168-169 華族でも名門蜂須賀家、侯爵の急死、愛妾——金と女が出てくる、絶好の社会部ダネだし、登場人物もスターばかり、小道具にピストル、そしてギャングだ。
事件記者と犯罪の間 p.168-169 華族でも名門蜂須賀家、侯爵の急死、愛妾——金と女が出てくる、絶好の社会部ダネだし、登場人物もスターばかり、小道具にピストル、そしてギャングだ。

例えば、両国の花火大会の記事は、ニュースではあるが、誰でもがこのニュースにふれること

ができる。公開されているニュースだからである。機会は均等である。

新聞記者の中にも、こういう公開されたニュースしか書けない記者がいるし、それが多い。特ダネの書けない記者である。それは、その記者が、不断の勉強を怠っているからである。記者の財産である、ニュース・ソースの培養を心がけていないからである。

役所を担当しても、その役所のスポークスマンしかしらないし、スポークスマンの言い分を文字にして本社へ伝えるだけである。この発表を咀嚼して批判を加えることもできないのである。これが果して、新聞記者であろうか。だから、役所の発表文がそのまま活字になって、紙面にのるだけである。心ある読者は、一度役所の記者会見なるものを覗いてみられよ。二十人もの記者がいても、質問の発言をするのは二、三人だけである。それは決して代表質問ではない。並び大名の記者たちには、質問すら浮んで来ないのである。

あんたにやるよ

私はサツ廻りののち、法務庁、国会、警視庁、通産省、農林省、法務省と、本社の遊軍以外にこれだけの役所のクラブを廻ってみたが、どこのクラブでもそうである。記者会見で談論風発という光景は少ない。質問さえできない記者は、他社の記者の質問によって「成程そうか」と思い、本社へ送る時には、自分の質問であるかの如くよそおうのである。

ニュース・ソースのない記者は、全くのサラリーマンである。その役所にいれば、その役所の

ことはその時だけ。他のことは我関せずで、そのクラブを去ったならば、もうその役所のことは判らないのである。

この場合、小林も王も私のニュース・ソースだったのである。もちろん、元山にも警察へ行く前に、自分の言い分を宣伝しておきたいという気持もあったろう。私は元山の話はさておき、横井との会見の理由が、蜂須賀侯爵家の債権取立問題と聞いてのりだした。

私は社へ電話して、「元山に会った。だが彼の話は宣伝だから面白くないが、蜂須賀侯爵家の債権問題が面白い。誰か記者をやってほしい」と伝えた。

華族でも名門蜂須賀家、侯爵の急死、愛妾——金と女が出てくる、絶好の社会部ダネだし、登場人物もスターばかり、小道具にピストル、そしてギャングだ。情報通の元子爵を叩き起して……と考えながら、私は社へきてみたのだが、社では何の手配もしてなかった。「畜生メ、ワカラズ屋ばかりだ。こんなネタを見送るなんて、読売社会部のカンバンが泣くヨ!」

私は心中で怒鳴って、黙って元山の原稿だけ書くとデスクに出した。私は萩原君を付近の喫茶店に誘うと、久し振りの快事件だというのにニュース・センスのなさを散々に毒づいてやった。何しろ「事件」が判らないのである。

しかし、翌日、私は念のため某元子爵に会って、蜂須賀家の内情をきいてみると、亡くなった正氏侯爵が奇行の人で、いよいよ面白い。ところが、翌日朝、毎日が一通り書いてしまった。

「ウチの方が余ッ程深く掘っているのに!」と、また舌打ちである。

事件記者と犯罪の間 p.170-171 王と小林が誰か犯人を二日の約束であずかった

事件記者と犯罪の間 p.170-171 五人の指名手配者の誰かの変名に違いない。面白い。私は乗り出した。「その男に私を逢わしてくれ」「ヨシ、それなら、あんたにやるよ」王と小林は渡りに舟とばかり、即座に答えた。
事件記者と犯罪の間 p.170-171 五人の指名手配者の誰かの変名に違いない。面白い。私は乗り出した。「その男に私を逢わしてくれ」「ヨシ、それなら、あんたにやるよ」王と小林は渡りに舟とばかり、即座に答えた。

それからしばらくたって、私はある週刊誌から、横井事件の内幕の原稿依頼を受けた。どんなに面白いネタを集めても、自分の新聞にのらないのだから仕方がない。何しろ、私は一出先記者である。紙面制作にタッチしていないのだから、原稿の採否の権限がない。

私は依頼を引受けて、蜂須賀対横井の最高裁までの法廷の争いを調べようと思った。私は車を駈って、目黒区三谷町の王の事務所を訪れた。夜の八時ごろだったろうか。七月三日のことである。その時に安藤組の子分という若いヤクザっぽい男に会った。

事務所の二階で、各級裁判所の判決文写しなどを見せてもらっていると、階下が騒がしい。事務員がやってきて、「碑文谷署の刑事がきた」という。上ってきた刑事は、横井事件の本部から、「こちらに安藤組の犯人が立廻ったという情報だから調べてくれ、とのことです」という。

私が王から、付近のマーケットの立退き問題でモメていると聞いていたから、即座に私を誤認したイヤガラセの電話だナと判断したのだった。何しろ、その時の私は、髪は油気なしのヒゲボウボウ、Yシャツを車に脱いでアンダーシャツ一枚の姿だったから、見間違えられるのもムリはなかった。

「それは間違いでしょう。私は読売の記者で三田といいます。私を間違えたのですよ」と、笑って自ら名乗った。もちろん、何の疑念もなかった。そして、刑事たちは納得して帰っていった。王と小林はプンプン怒って出たり、入ったりしていたが、やがて、私に伝言を残していなくなってしまった。

事務所の伝言によると、先程の若いヤクザを探して一緒にきてくれということだ。私は付近の喫茶店にいたその「フク」と呼ばれる男と一緒に渋谷のポニーという喫茶店に出かけた。

そこには、王、小林の両名がいて、たちまち、そのフクとの間で激しい口論になった。

「何だ、二日という約束なのに、どうしたっていうんだ。いまだに何の連絡もないじゃないか」

「今時のヤクザなんて、何てダラシがないんだ。他人に迷惑をかけやがって」

私は黙って三人の会話を聞いているうちにやっと様子がのみこめてきた。王、小林が誰か犯人を、二日の約束であずかったのだが、そのまま背負い込まされているので、連絡係のフクに喰ってかかっているのだ。

「一体、その男は誰だネ」

「安藤組の幹部で、山口二郎という人だ」

私の問に王が答えた。山口二郎? 聞いたことのない男だが、五人の指名手配者の誰かの変名に違いない。しかも、〝という人〟という表現だ。面白い。私は乗り出した。

「そんなみっともないケンカは止めなさい。それより、その男に私を逢わしてくれ」

「ヨシ、それなら、あんたにやるよ」

王と小林は渡りに舟とばかり、即座に答えた。私はその男をもらったのである。煮て食おうが焼いて食おうが、私の自由である。それから三十分ほどのちに、渋谷の大橋の先の広い通りで待っていた私の車を認めて、一台の車が向い側で止った。

事件記者と犯罪の間 p.172-173 指名手配犯人の逮捕第一号が読売の特ダネになる

事件記者と犯罪の間 p.172-173 「私は、実は小笠原郁夫です」私はうなずいた。彼は自首する時は必ず三田さんの手で自首して、読売の特ダネにする。自首までもう四、五日間時間をかしてほしい。必ず連絡する、という
事件記者と犯罪の間 p.172-173 「私は、実は小笠原郁夫です」私はうなずいた。彼は自首する時は必ず三田さんの手で自首して、読売の特ダネにする。自首までもう四、五日間時間をかしてほしい。必ず連絡する、という

王と小林は渡りに舟とばかり、即座に答えた。私はその男をもらったのである。煮て食おうが焼いて食おうが、私の自由である。それから三十分ほどのちに、渋谷の大橋の先の広い通りで待っていた私の車を認めて、一台の車が向い側で止った。

ドアを開けて、一人の男がこちらに走ってくる。私は「山口さんですネ」と念を押してうなずく男を、すぐ車中に招じ入れた。チョッとしたスリラーである。例のフクも乗りこんできた。私は運転手に「奈良へ」と、赤坂見附にある社の指定旅館「奈良」へ行くように命じた。これが、新聞記事にある〝共同謀議をした赤坂の料亭〟の正体である。

旅館のママさんは、一流料亭のように扱われたので、ニヤニヤであろう。近頃のデカやサラリーマン記者には、〝赤坂の料亭〟など、見たこともないし、旅館と料亭の区別もつかないのであろうか。

旅館について、明るい灯の下で、〝山口二郎という人〟を見た私は、どうやら小笠原郁夫らしいナと感じた。いろいろの話をしたのち、私はその男に自首をすすめた。

「しかし、自首といっても、形はあくまで逮捕ですよ。犯人が自首して出るなンてのは生意気ですからね。警察というものは、犯人を逮捕しなければ、威信にもかかわるのです。だから私はあなたを、あくまで逮捕させるのに協力するのです。そして、ウチの紙面でももちろん逮捕と書きます」

彼は、「まだ自首できない」と答えた。その理由をいろいろと述べるのである。私はもう深夜なので、時間を気にしはじめた。明日までに週刊「娯楽よみうり」に決りものの、「法廷だより」の原稿を書かねばならない。「ともかく、一晩ゆっくり考えて、自首する決心をつけなさい。もし、どうしても自首できないならば、明日の夕方までにここを立去ってもらいたい」

と、私は厳しくいって「奈良」を出た。

のるか、そるかの決断

翌四日は、私が忙しくて夕方までに「奈良」へ行けなかった。夜十一時すぎごろ、やっと「奈良」へかけつけると、私が来ないと思った小笠原は、すでに帰り仕度をして、玄関に立っていた。私と彼は再び「奈良」の一室で会った。

「私は、実は小笠原郁夫です」

彼の名乗りを聞いて、私はうなずいた。彼は自首する時は必ず三田さんの手で自首して、読売の特ダネにする。自首までもう四、五日間時間をかしてほしい。必ず連絡する、というので、自宅と記者クラブの電話番号を教えた。そして、彼を鶯谷まで送ってやって別れたのである。

七月十一日の夕方、フクから(のちに福島という、花田の子分と判った)電話で小笠原が会いたいと連絡してきた。いよいよ自首の決心がついたのかと、私はよろこんで会う段取りを決めた。五人の指名手配犯人の逮捕第一号が、読売の特ダネになるのである。ソワソワするほどうれしかった。

自首の段取りができたら、この事件の担当である深江、三橋両記者を呼んで、逮捕数時間前のカッチリした会見記を取材する。取材が終ったら、この両記者が花を持たせたい捜査主任に連絡して、小笠原を放し、路上で職務質問の逮捕をさせるのである。

事件記者と犯罪の間 p.174-175 自首どころかもう一週間ほどかくしてくれという

事件記者と犯罪の間 p.174-175 私は短かい時間で決断を迫られていた。彼の申出をキッパリと拒絶するかきいてやるか。当局へ連絡して逮捕させるべきか、黙って別れてしまうかである。
事件記者と犯罪の間 p.174-175 私は短かい時間で決断を迫られていた。彼の申出をキッパリと拒絶するかきいてやるか。当局へ連絡して逮捕させるべきか、黙って別れてしまうかである。

自首の段取りができたら、この事件の担当である深江、三橋両記者を呼んで、逮捕数時間前のカッチリした会見記を取材する。取材が終ったら、この両記者が花を持たせたい捜査主任に連絡して、小笠原を放し、路上で職務質問の逮捕をさせるのである。

或は、小笠原の自宅に張込みをさせて、そこまで送りとどけ、細君と最後の対面をさせてやって、逮捕してもよい。仲の良い後輩であるこの二人の記者に花を持たせ、両記者は担当主任に花を持たせる。そして、当局の捜査に協力したという実績が、読売をして捜査二課に、ニュース・ソースというクサビを一本打込ませるのだ。

不忍池で現れた小笠原を車に拾い、「奈良」にとって返した私は、さらにフクの案内で現れた「花田映一」という人物に会った。私が入浴している間に、やってきた三人は、何事かを相談し合っていた。

「東興業副社長の花田さんです。何にもヤマがないので、幹部でホジョウ(逮捕状)の出ていない唯一人の人です」という紹介だった。しばらくして、

「御迷惑をおかけしてますが、何分とも宜しくお願いします」

と、花田は礼儀正しく挨拶して、一人先に帰っていった。如何にも小笠原より兄貴分らしい貫禄だった。

花田が帰り、小笠原とフクとの三人になったが、彼は一向に自首の話を持ち出さない。私が変だゾと思いはじめた時、小笠原はフクに向って、

「お前はしばらく風呂に入ってこい」

と命じて、私と二人切りの機会を作った。

すると意外にも、自首どころかもう一週間ほど、かくしてくれという依頼を切り出したのだ。

小笠原がどんな気持で、私に「逃がしてくれ」と頼んできたのか、私には未だに判らない。のちに、フクからきいたところによると「王さんや小林さんは信用できない人だと思ったので、そこにいる間中、いつサツに密告されるかと心配していた。その人たちに紹介された三田さんだし、検察庁担当の記者だと聞いて、いよいよ不安だった」そうである。

すると、三日、四日と二日間が無事だったので、すっかり信用してしまったらしい。ともかく、小笠原は花田にも、フクにも内緒で三田さんと二人だけの話ですから、北海道へでも、しばらくかくして下さい。しかし決して逃げ切ろうというのではなく、せめて社長(安藤)の後から自首したい。時間もそう長いことではない。必ず三田さんの手で自首する。御迷惑は決してかけない(自首しても逃走経路は黙秘するという意味)と、頭を下げて頼みこむのである。

私はこの時に、短かい時間で決断を迫られていた。つまり、彼の申出をキッパリと拒絶するかきいてやるか。当局へ連絡して逮捕させるべきか、黙って逃がしもせず別れてしまうかである。

私と小笠原との出会いは、前述した通りである。もちろん、安藤組とは誰一人として、今迄何の関係もなく、何の義理も因縁もなかった。王、小林にも、「かくまってくれ」とは頼まれていない。むしろ、先方で持て余していたのを、私が会わせろといったので、厄介払いをしたように、「ヨシ、あんたにやるよ」といって、全くもらってしまった身柄であるし、私の興味は新聞記者としての取材対象以外の何ものでもない。もちろん、金で頼まれたりするような、下品な男ではない。

事件記者と犯罪の間 p.176-177 だが私にも決断するだけの根拠があった

事件記者と犯罪の間 p.176-177 私は決心した。「よろしい。やってみましょう」私は、小笠原を信じたのである。人は笑うかも知れない。「何だ、タカがグレン隊の若僧に…」「信ずべからざるものを信ず るなンて…」と。
事件記者と犯罪の間 p.176-177 私は決心した。「よろしい。やってみましょう」私は、小笠原を信じたのである。人は笑うかも知れない。「何だ、タカがグレン隊の若僧に…」「信ずべからざるものを信ず るなンて…」と。

第一、私には、前にものべたように、教育と名誉と地位と将来とがあるのである。黙っていて社からもらうサラリーが約四万二千円。それに取材費として、私は月最低一万二千円、多い時には三万円を社に請求した。その上自家用車ともいえる社の自動車がある。そればかりではない。数字を明らかにしたくないが、私が月々得る雑誌原稿料は相当なものであった。

この私が、どうして、十万やそこらのメクサレ金で、刑事訴追を受けるような危険を冒すであろうか。もしも、誰かが一千万円も出すといって頼みにくれば、しばらくは考えこむだろうが、百万円もらってもイヤである。私の将来がなくなるからである。私の二人の可愛い子供たちが、学校へ行けなくなるし、三田姓を名乗る一族のすべてが、肩身せまくなるからである。

私の意志は、小笠原のこの突然の、虫の良すぎる申出の前で、全く自由であった。彼の意志に反して、彼の眼前で警視庁へ電話して突き出すことにも、恐怖なぞ感じなかった。私は取材で、記事で、もっと恐いことを味わっている。

私は決断を迫られた。私の無言に、小笠原は誠心誠意、人間の信義をかけて、再び頼みこんできた。私は彼の眼をジッとみつめて、しばらく考えこんだ。ホンの数分である。イヤ数十秒かも知れない。——私は決心した。「よろしい。やってみましょう。ただ、北海道といえば、頼める人はただ一人、旭川にいた私の昔の大隊長だけです。その人がウンといったら、紹介してあげます。もし、ダメだといったら、あきらめて自首なさい」

私はこの瞬間に、大勝負へ踏み切ったのであった。新聞記者として一世一代の大仕事である。

まさにノルカソルカであった。戦争と捕虜とで〝人を信ずる〟という教訓を得た私は、小笠原を信じたのである。

人は笑うかも知れない。「何だ、タカがグレン隊の若僧に…」「信ずべからざるものを信ず るなンて…」と。そして、実際このような言葉を聞いた。

(写真キャプション)内幕モノを書いた(右)身が、告白モノも書く(左)

雄壮なる構想を描いて

だが私にも、決断するだけの根拠があった。まず第一に、絶対に一点の私心さえない純粋な新聞記者としての取材であったことである。これこそ、俯仰天地に恥じない私の気持である。だからこそ、二十五日の拘禁生活も、よく眠りよく食い、調べ室では与太話で心の底から笑って、かえって、肥って帰ったほどである。

私の計画の根拠は、花田の出現であった。彼

がフクに連れられて「奈良」に現れたことは、当然、連絡であった。フクは王の家の時にもいたのだから、日共用語でいえば、テク(防衛)とレポ(連絡)である。

事件記者と犯罪の間 p.178-179 五人の犯人を手中に納め五日間連続特ダネの報道

事件記者と犯罪の間 p.178-179 安藤を説得できれば、安藤の命令で他の四人は簡単である。そうすれば、私の手の中に横井事件の犯人五人ともが入ってくる。私の手でいずれも警視庁へ引渡す。事件は解決である。
事件記者と犯罪の間 p.178-179 安藤を説得できれば、安藤の命令で他の四人は簡単である。そうすれば、私の手の中に横井事件の犯人五人ともが入ってくる。私の手でいずれも警視庁へ引渡す。事件は解決である。

私の計画の根拠は、花田の出現であった。彼

がフクに連れられて「奈良」に現れたことは、当然、連絡であった。フクは王の家の時にもいたのだから、日共用語でいえば、テク(防衛)とレポ(連絡)である。

花田の出現を、逃走費用を渡すためとみたのである。(事実、あとで聞けば一万五千円を届けてきた)逮捕状の出ていない花田は、副社長だという。日共の九幹部潜行でいえば、合法面に浮んでいる臨時中央指導部であろう。安藤が徳球である。

すると、花田を通じて安藤に会えるということだった。安藤に会う。彼を自首へと説得するのだ。逃走者の心理は、ほぼ分る。何しろ、日共はじめスパイなどと、私は公安記者のオーソリティだったからだ。

安藤を説得できれば、安藤の命令で他の四人は簡単である。そうすれば、私の手の中に横井事件の犯人五人ともが入ってくる。私の手でいずれも警視庁へ引渡す。事件は解決である。本部専従員八十名、全国十五、六万人の警官を動員し、下山事件以来の大捜査陣を敷いたといわれる横井事件も、一新聞記者の私の手によって一挙に解決する。

五人の犯人を手中に納めたら、すぐ各人に記者が一名宛ついて監視する。まず第一日に一人を出す。これが読売の特ダネだ。特捜本部では感謝感激して、この犯人を逮捕するだろう。翌日、また一人を逮捕させる。これもまた読売の特ダネだ。

こうして、五日間にわたり、最後の安藤逮捕まで、連日の朝刊で犯人逮捕を抜き続けたら、これは一体どういうことになるだろう。横井事件は一挙に解決し、しかも、読売の圧勝である。

私はそれこそ、〝日本一の社会部記者〟である。そしてまた、警視総監賞をうける最高の捜査協力者である。本年度の菊池寛賞もまた私個人に与えられるかも知れない。各社の横井事件担当記者は、いずれも進退伺いを出さざるを得ないであろう。

この五日間連続特ダネの報道で、読売の声価はつとに高まり、「事件の読売」「社会部の読売」の評価が、全国四百万読者に湧き起るであろう。会社の名誉でもある。〝百年記者を養うのは、この一日のため〟である。

二人目の犯人を出した時、警視庁は怪しいとカンぐるかも知れない。そして、残りを一度に欲しいと、社会部長か編集局長に交渉してくるだろう。刑事部長と捜査二課長の懇請を入れて、三日目に全員を逮捕させてもいいだろう。

私の構想は、とてつもない大きさでひろがっていった。

この計画を或は他の記者は、空想として笑殺するかも知れない。しかし、そうではない。安藤親分のただ一言、「横井の奴、身体に痛い思いをさせてやれ」で、現実に千葉が射っているではないか。

同様に、安藤が「皆、自首しろ」と命令しさえすれば、この計画の実現性はあるのだ。花田に「安藤に会わせろ」と交渉して、果して花田は安藤のアジトを教えるだろうか。たとえ、安藤にあうことができて、「私の手で自首しろ。五人の身柄を私にまかせろ」と、説得できるだろうか。

私が、ただの〝新聞記者〟にすぎないならば、安藤を説得することは難しい。

事件記者と犯罪の間 p.180-181 ヤクザにはヤクザらしい説得法

事件記者と犯罪の間 p.180-181 私が、職を賭して彼らへ義理立てさえすれば、「安藤にあわせろ」の要求も、安藤の説得も可能になる。〝一歩後退、五歩前進〟の戦略だ。——ヨシ、やろう。
事件記者と犯罪の間 p.180-181 私が、職を賭して彼らへ義理立てさえすれば、「安藤にあわせろ」の要求も、安藤の説得も可能になる。〝一歩後退、五歩前進〟の戦略だ。——ヨシ、やろう。

私が、ただの〝新聞記者〟にすぎないならば、安藤を説得することは難しい。

元山の会見記のように、先方にも新聞記事を利用しようという気があればまだしもである。しかし、今度は自首である。自首すれば早くて四、五年はこの娑婆とお別れだ。共産党であれば、政治的にそのことに価値があれば、まだ説得できる。しかし相手はヤクザだ。ヤクザにはヤクザらしい説得法がある。

私は小笠原を一時的に北海道へ落してやろうと考えた。私はあくまで小笠原に頼まれただけ。私が「犯人隠避」という刑事訴追をうける危険を冒しても、ここで一度彼らへの義理を立てるのだ。私が、職を賭して彼らへ義理立てさえすれば、「安藤にあわせろ」の要求も、安藤の説得も可能になる。〝一歩後退、五歩前進〟の戦略だ。

——ヨシ、やろう。

私の決心は決った。たとえ、最悪の場合でも、四人が逮捕されても、小笠原一人が残る。そこで、小笠原を逮捕させて、事件は解決する。北海道に何のカンもない彼には、金もあまりないことだし、旭川に預けておけばフラフラ道内を歩くことは不可能だ。彼との固い約束で、自首の決心さえつけば上京してくる。それ以外は旭川にいる。彼を私の視線内においておくには、彼が一人歩きできないところに限る。旭川という〝冷蔵庫〟に納めておくのだ。

権力への抵抗

恐怖の二時間

私は彼を伴って、塚原さんの家に向った。前述のように塚原さんは何の事情もきかなかった。

「明朝、外川に速達を出しておこう」

私はその返事に、運命はすべて決ったと覚悟した。小笠原をまた奈良旅館にかえし、自宅へもどった。すでに深夜で、妻や子、老母も平和に眠っていた。

私は書斎に入ると、六法全書の頁を繰った。去年の夏、司法クラブのキャップになってから、使い馴れた六法全書だ。刑法篇だけが手垢に黒く汚れている。

刑法第百三条 罰金以上ノ刑ニ該ル罪ヲ犯シタル者又ハ拘禁中逃走シタル者ヲ蔵匿シ又ハ隠避セシメタル者ハ二年以下ノ懲役又ハ二百円以下ノ罰金ニ処ス

パタリと私は六法を閉じた。私の行為は、この行為だけを取り出してみるならば、明らかに「犯人隠避」である。つまり、捜査妨害なのである。しかし、私は果して当局の捜査を妨害しようとしているのだろうか。否、否。捜査に協力する目的、事件を解決するために、一時的に、し

かも、逃がさないために北海道へやるのだ。

事件記者と犯罪の間 p.182-183 計画は崩れもはや最悪の場合である

事件記者と犯罪の間 p.182-183 私の計画はその第一歩では成功であった。ところが、事態は意外な進展をみせて、十五日には安藤、久住呂の両名が逮捕され、つづいて十七日には花田までが犯人隠避で逮捕されてしまったのである。
事件記者と犯罪の間 p.182-183 私の計画はその第一歩では成功であった。ところが、事態は意外な進展をみせて、十五日には安藤、久住呂の両名が逮捕され、つづいて十七日には花田までが犯人隠避で逮捕されてしまったのである。

パタリと私は六法を閉じた。私の行為は、この行為だけを取り出してみるならば、明らかに「犯人隠避」である。つまり、捜査妨害なのである。しかし、私は果して当局の捜査を妨害しようとしているのだろうか。否、否。捜査に協力する目的、事件を解決するために、一時的に、し

かも、逃がさないために北海道へやるのだ。

新聞記者の取材活動には、しばしば不法行為がふくまれる。密航ルートの調査のため、台湾人に化けて密航船にのりこみ、密出国(出入国管理令違反)し、香港まで行ったケースもある。この場合は、密航ルートの調査資料を、当該当局に提供することによって、訴追をまぬかれているのだ。犯人を逮捕させることによって、その経過の中の不法行為もまた許されるであろう。

翌七月十二日、正午すぎに塚原さんが最高裁内の記者クラブにたずねてきた。二人で「奈良」へ向った。二人を紹介したところ、塚原さんは事務的に、旭川の外川材木店の住所と駅からの略図とを書いて教えた。約三十分の会見で塚原さんは立上った。その時、小笠原が、私に一万円を渡して、「下着類と旭川までの切符を買って下さい」と頼んできた。そうすることに、若干の抵抗は感じたが、もはや私の計画は実行行為に入っているのだ。今さら、「それは困る」とはいえない。

塚原さんを東京駅に送ると、交通公社で切符を買い、三越で下着類を買って、再び「奈良」へもどった。十六時五分という急行があるので、それに間に合うようにと、車を飛ばして上野駅へかけつけ、小笠原を駅正面でおろしたのが、四時十分前ごろであった。

おろしてからの一、二時間は、本当のところ恐かった。もしかするとメングレ(顔見知り)の刑事が駅に張り込んでいて、彼を逮捕するかも知れないからだ。しかし、メングレでなければ、手配写真などでは、絶対に判らないだろうと考えて、列車にさえのれば旭川着は間違いないと思っ

た。そして、私の雄大豪壮な計画はまず、その第一歩では成功であった。

ところが、事態は意外な進展をみせて、すっかり変ってきたのである。この秋に、私たち戦前の演劇青年、少女たちが集って、職業人劇団を結成し、その第一回公演を、やはりメンバーの一人である大川耀子バレー研究所の発表会に便乗して、砂防会館ホールで開こうという計画があった。その準備の会合で、十三、十四の両日がつぶされたが、十五日には逗子の貸別荘で安藤、久住呂(島田)の両名が逮捕され、つづいて十七日には花田までが犯人隠避で逮捕されてしまったのである。

全く、アレヨアレヨと思う間の進展ぶりで、私の計画は早くも崩れはじめた。もはや最悪の場合である。小笠原一人の逮捕協力以外に途はなくなってしまったのであった。志賀、千葉両名はまだ残っていたが、花田がいなくなっては、もはや連絡のとりようもなかった。私は最後に小笠原を出そうと決心して、彼の連絡をひたすらに待っていた。

十九日にフクから「会いたい」と電話がかかってきた。夜、渋谷であってみると、別に彼のもとにも連絡はなかったようである。私はもちろん無制限に小笠原を旭川においておくつもりはなかった。「就職させた」などと報じられているが、彼は外川材木店で働いていたわけではないし、外川方で金をもらってもいない。あずかってもらっただけだ。

三日にはじめてあい、四日に別れたあと、私は読売という組織の中にある新聞記者として、十分な措置をとっている。従って、七月三、四日両日の行動は、新聞記者の正当な取材活動として

の埒は越えていないし、警視庁当局でもこの点は「取材活動」として認めてくれている。

事件記者と犯罪の間 p.184-185 私は会見記を書かなかった

事件記者と犯罪の間 p.184-185 逃走犯人との会見記事の実例は、朝日の伊藤律架空会見記、同じく殉国青年隊長豊田一夫会見記などがあるが、私はこの種の会見記は、邪道だと信じていた。
事件記者と犯罪の間 p.184-185 逃走犯人との会見記事の実例は、朝日の伊藤律架空会見記、同じく殉国青年隊長豊田一夫会見記などがあるが、私はこの種の会見記は、邪道だと信じていた。

三日にはじめてあい、四日に別れたあと、私は読売という組織の中にある新聞記者として、十分な措置をとっている。従って、七月三、四日両日の行動は、新聞記者の正当な取材活動として

の埒は越えていないし、警視庁当局でもこの点は「取材活動」として認めてくれている。

というのは、四日に別れた時の小笠原との約束は、「今度連絡してくる時は、三田記者の手を通して自首する」ことであった。そこで私は五日か六日ごろ、社会部長に対して、

「横井事件の犯人である小笠原という男に逢えそうです」と、報告した。金久保部長は、「小笠原って、どんな奴か」ときいた。

「はじめは、横井を狙撃した直接下手人と思われていたけど、のちにこれは千葉という小笠原と瓜二つに顔の似た男に訂正されました。しかし、安藤組の幹部だというし、殺人未遂犯人ですから、逮捕前の会見記は書けるでしょう」

私の説明に、何故か部長はあまり気のない返事で、「フーン」といったきりだった。そして席を立ちながら、「だけどあまり深入りするなよ」と注意を与えたのである。

会見記は書かなかった!

私は一方、警視庁クラブへ電話して、事件担当の三橋記者にいった。「オイ、近く俺のところにホシ(犯人)が浮んできそうだから、段取りをつけたら、君と深江君とにやるからナ」

三日、四日の小笠原との会見で、ほぼ取材は済んでいたが、この時には自首をすすめて容れられずに別れているので、部長にも担当記者にも、すでに一度会っていることは、あえていわなかったし、会見記の原稿も提稿しなかった。

何故かというと、逃走犯人との会見記事の実例は、朝日の伊藤律架空会見記、同じく殉国青年隊長豊田一夫会見記などがあるが、私はこの種の会見記は、邪道だと信じていた。第一に、この種の会見記の意義というのは、何ら認められないからだ。警察が法律の執行体として追究している犯人に、ただ単に会見して別れてしまうということは、犯人に逃走を誇示させて〝英雄〟気取りを抱かせるし、同時に警察の無能ぶりに対する挑戦ともいえる。従って警察の威信を傷つけることが大だからである。

善良なる市民は、法の保護の下に平和な生活を営んでいるのだ。もし、暗黒政治とまではゆかなくとも、警察を信頼できなくなったら、それこそ「俺が法律だ」という、〝力が正義〟になってしまう。やはり、警察は信頼できるものでなければならないし、信頼されなければならない。

これが私の記者生活間における信念であった。だからこそ、私は小笠原に自首をすすめたけれど、「逮捕ですよ」と念を押している。新聞が犯人の逃走誇示に片棒をかつぐことはできない。そこで、会見記の原稿を書かなかった。それよりも数日後には、逮捕されるのだから、逮捕数時間前の会見記というスリリングなニュースの方が余程良い。また事件担当記者に会わせる方が、より細かく、より具体的な質問ができるからである。

以上の理由から私は、会見記を新聞には書かなかった。元山会見記は、犯人として手配はされていない、カギを握る人物だから、事情が全く違うのである。しかし、私はこの小笠原との会見記は、雑誌『日本』の「近代企業に巣喰う暴力」と題する原稿には書いた。インテリ・ヤクザの

言い分をのせたかったからである。

事件記者と犯罪の間 p.186-187 「我が事敗れたり」と私は覚った

事件記者と犯罪の間 p.186-187 フト、デスク(当番次長)の机の上をみると、本社旭川支局発の原稿がきている。何気なく読んでみると、外川材木店にいた男を小笠原と断定して捜査している、という原稿だった。
事件記者と犯罪の間 p.186-187 フト、デスク(当番次長)の机の上をみると、本社旭川支局発の原稿がきている。何気なく読んでみると、外川材木店にいた男を小笠原と断定して捜査している、という原稿だった。

しかし、私はこの小笠原との会見記は、雑誌『日本』の「近代企業に巣喰う暴力」と題する原稿には書いた。インテリ・ヤクザの

言い分をのせたかったからである。

私は読売新聞の記者であり、その記者としての取材活動で知り得たことだから、新聞に書かないで、他社の雑誌に書いたことを非難されるかも知れない。しかし、事件が新聞紙上で終ったのち、その内容をより詳細に掘り下げて追うのが、雑誌ジャーナリズムだ。この場合、新聞記者がペンネームで新聞の用済みになった材科を使って、原稿を書くことは、サイドワークとして慣行上認められていることだ。社名を冠して、読売記者として執筆することには、会社の許可が必要だが、ペンネームの場合には黙認されていることだ。

私はそのつもりで、ただ、より良く新聞と雑誌の発行のタイミングを合わせたにすぎない。つまり、『日本』の発売日が七月二十五日と聞いた。全国の店頭一斉発売が二十五日なら、二十三日には雑誌が刷り上って、チラホラ街へ流れはじめるころだ。

雑誌が街へ出はじめれば、その中の小笠原会見記も人目に止まろう。その前に、新聞で小笠原会見記を発表すれば、もはや、雑誌の会見記は新聞のカス(余った材料)になるワケだから、サラリーをくれている新聞社への申訳けは立つと考えたのである。

同時に、この雑誌の発売日が、私の小笠原に対する〝自首待ち〟の期限だった。私とて小笠原を永久にかくまうつもりではなく、記者としての取材上の一時的なものだから、最大限の期限を二十五日と決めたのである。彼は自首を「一週間か十日待ってくれ」といった。だから、彼が自首すると連絡してこなければ、遅くも二十二日には「小笠原はこういう事情で、私が旭川にしま

っておいた。住所はここだから、すぐ捕えてくれ」と、警視庁へ連絡する予定だったのだ。もちろん、その前に、彼が上京してきて、逮捕の特ダネと逮捕数時間前の会見記の特ダネと、二本の記事で読売の紙面を飾れるものと信じていた。ところが、その期限である二十二日に、私が逮捕されたのだから皮肉なものである。

十二日の小笠原北海道行、十五日の安藤逮捕、十七日の花田逮捕、十九日のフクの連絡と、めまぐるしく日が経って、二十日の日曜日のことだった。

わが事敗れたり

日曜日は私の公休日だ。家で芝居のためのガリ版刷りなどをしていると、私のクラブの寿里記者から電話がきて、「大阪地検が月曜日の朝、通産省をガサって、課長クラスを逮捕するが、原稿を書こうか」といってきた。夜の八時すぎごろだ。寿里記者一人にまかせておいても良かったのだが、何故か私は「今すぐ社へ行くから待っていてくれ」と答えて、出勤した。翌朝の手入れのための手配をとり終って、フト、デスク(当番次長)の机の上をみると、本社旭川支局発の原稿がきている。何気なく読んでみると、外川材木店にいた男を小笠原と断定して捜査している、という原稿だった。

「我が事敗れたり」と私は覚った。事、志と反して、ついにここにいたったのだ。私はそれでも当局より先に、事の破れたのを知ることができた幸運に、「天まだ我を見捨てず」とよろこんだ。