「何いってるンだ、ケダモノ奴! あの子は、お前が殺したんじゃないか! 人でなし奴! 実の父親のクセに、実の娘を犯すなんて、お前が殺したも同然だ!」
この、一番残酷で、最も侮辱的な一ことに、父親の表情が変った。青くなってふるえ出した。
しばらくしてから、やっと気を取り直して、ふるえを食いしばって、笑おうとしたのだが、それは笑いにならず、奇妙な叫び声になって、わずかに口から洩れただけだ。
私は社へ帰るや、原稿を書きまくりはじめた。ほとんど全くの真相を書いたのだが、彼女が、処女ではなくなっていたことと、日記が二日もぬけていたことはふれなかった。
最後に、父親の話を書いた。
「私がI子にいやらしいことをしたなんて……、とんでもない、フトンをかけたり、めくったりしたのは、寝冷えしやしないかという、本当の親子の愛情から出たことです。かんじんのフトンさえ少ないので、一しょに寝たりするのが、内気で感受性の強い娘の心を刺激したのかもしれません」
ここまで書いてきて、私は少し考えてから、もう少しつけ足した。
「全くの誤解です。しかしいずれにしろ、これを機会にぷっつりと酒をやめ、娘の冥福を祈るつもりです」
これが、私のはなむけの言葉だった。何しろ、彼女の遺書には「私は清い心と身体のまま死んでゆきます」とあったからだ。
しかし、整理部のデスクが、うまい見出しをつけてくれた。〝拭いきれない悪夢〟と。私は今でも、あの父親の表情を想い起す。この長い人生で、あのような表情は、二度とみることはあるまい。
特ダネ記者と取材
特ダネと心理作戦
特ダネというものは、タネを割れば簡単なものである。広く深く、情報ともいうべきニュース・ソースの交際を持っていれば良い。それと、あとは記者自身の、情報を記事という具体的なものに進められる能力である。
私は特ダネ記者だといわれた。今、この十五年間のスクラップ・ブックをひろげてみると、実によく原稿を書いているし、一番働き盛りであった、二十四年から二十九年の六年間などは、全くトップ記事の連続であり、M記者とか、三田記者とかの署名入りが多い。
これも、「これはイケる」という、ニュース・センスと、そんな話を聞きこめるニュース・ソースとが、両々相俟っていれば、極めて簡単なことである。私は、役人に事件の書類をすべて見せてもらった、という記憶がない。やはり、それほど役人は、秘密を守る義務に対して忠実である。
従って、役所の机の中をガサったり書類を盗み出したりといった、非合法取材の経験はない。
ただ、私は友人に多く恵まれて、いろんな噂話を聞ける立場にあった。特ダネのヒントは、すべて、このように民間人から得るのであった。