最後の事件記者 p.446-447 強い敵と闘うことは相当な勇気がいる

最後の事件記者 p.446-447 安藤と一緒にキャバレーに行き、それから三田は、銀座、渋谷を安藤のツケで飲み歩くようになった。といった、〝悪と心中した新聞記者〟のオ粗末の一席を平気で書いているのである。
最後の事件記者 p.446-447 安藤と一緒にキャバレーに行き、それから三田は、銀座、渋谷を安藤のツケで飲み歩くようになった。といった、〝悪と心中した新聞記者〟のオ粗末の一席を平気で書いているのである。

「読んでみると、全く社の悪口はなく、取材意欲と愛社心にもえるものだった。読者には読売に

はいい記者がいたものだと感心させ、社の幹部も反省することがあるだろう。私たちも第一線地方記者として、読売に誇りを感じた。折あれば早くまた帰社して頂き……」

「仕事をしすぎて病気になったのも、大兄同様悔んではいません。離れて思えば新聞なんてつまらない仕事だけど、そう思っても、やり抜かずにはいられないのは、お互に情ない性分でしょうか」

「読売新聞は貴殿の如き人材を多々踏み台として、今日の隆盛を築きあげてきたのだと想像されます」

官僚の権力エゴイズムについての反響が、一番多かったようである。ある紳士は私を一夕招待してくれて、警職法反対の運動を起そうではないか、とまでいわれた。

「ゲゼルシャフトとゲマインシャフトですよ。第一、菅生事件をみてごらんなさい。犯人の戸高巡査部長をかくまったのは、警察の幹部じゃないですか。これは、どうして犯人隠避にならないのです? そして、公判では検事が戸高をかばってますよ。警職法などが通ったら、世はヤミです。現状でさえこれですからね」

もう記者をやめてしまった、司法記者クラブの古い記者に街で会った。

「誰だい? 警視庁のキャップは? 君を逮捕させるなんて、あんなのは新聞記者で当然のことじゃないか」

この記者の時代には、新聞と警察はグルになって、おたがいにウマイ汁を吸っていたのだから

その意味での不当をなじっていた。

最後の事件記者

だが、私が一番ガマンならなかったのは、逮捕された奴は悪党だから、何を書いてもいいんだという、ジャーナリズム全般にみられる傾向である。それが、しかも全くのデタラメである。

ある旬刊雑誌が、私と安藤親分とが、法政大学での先輩、後輩の仲だと書いている。「新聞記者とギャングの親分という関係ではないんだ、学校の先輩、後輩なんだ」と、三田は自分の良心へいいきかせた。そうして、安藤と一緒にキャバレーに行き、それから三田は、銀座、渋谷のキャバレー、バーを、安藤のツケで飲み歩くようになった。そして、小笠原を逃がすように頼まれる——といった、〝悪と心中した新聞記者〟のオ粗末の一席を平気で書いているのである。

私は弁護士と相談して、私の名誉回復のため、訴訟を起す覚悟をした。まず、筆者を明らかにするよう要求したのだが、笑いとばされて、誠意がみられないからである。私が勝訴になったらその雑誌のバックナムバーをみて、デマを書かれて迷惑している人たち全部を集めて、徹底的に闘いたいと考えた。強い敵と闘うことは、相当な勇気がいることである。護国青年隊よりは、本質的に勇気が必要である。

最近のジャーナリズムをみていると、面白い傾向が出てきている。それは第二報主義であった週刊誌が、新聞を出しぬいて、特ダネをスクープしていることだ。