正力松太郎の死の後にくるもの p.028-029 日本の新聞は戦争によって発展

正力松太郎の死の後にくるもの p.028-029 戦時中の占領地のために、朝日の昭南(シンガポール)新聞、毎日のマニラ新聞と並んで、読売はビルマ新聞の経営、育成を軍から委託されて、大新聞に次ぐ社会的評価が与えられた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.028-029 戦時中の占領地のために、朝日の昭南(シンガポール)新聞、毎日のマニラ新聞と並んで、読売はビルマ新聞の経営、育成を軍から委託されて、大新聞に次ぐ社会的評価が与えられた。

そしてそれと同時に、「三大紙」時代から「二大紙」時代へと移行していたのであった。 戦後の昭和二十年代の前半ごろまで、二大紙といえば、朝日新聞と毎日新聞をさしていた ものである。

昭和二十七年十一月、読売新聞が全株を持って、大阪読売新聞社が設立され、翌年四月には、夕刊をも発行するにいたって、朝日、毎日、読売の三大紙時代となるのである。そしていま、新聞関係者たちの間で語られる「二大紙」とは、凋落の毎日と躍進の読売とが入れ替って、朝日と読売の対立する二大紙時代のことである。

正力なればこその「社主」

ここで、三社の簡単な社史をべっ見しなければなるまい。

朝日新聞社は資本金二億八千万円。大阪、東京、西部(小倉)、名古屋の四本社、北海道支社。明治十二年大阪で第一号創刊。同二十一年「めざまし新聞」を買収して、「東京朝日新聞」として東京進出。昭和十年、西部、名古屋両本社設置、昭和十五年、現題号に統一。大株主は、村山長挙、一二%、村山於藤、一一・三%、村山美知子、八・六%、村山富美子、八・六%、(村山一族合計四〇・五%)、上野精一、一三・八%、上野淳一、五・七%、(上野一族合計一九・五%)

となり、六氏六〇%を占める。この数字は、私の手許の資料で昭和三十五年以来変っていない。

毎日新聞社は資本金十八億円。大阪、東京、西部(門司)、中部(名古屋)の四本社。明治十五年、日本憲政党新聞として大阪で創刊、明治二十一年大阪毎日新聞と改題(朝日の東京朝日発刊の年)明治四十四年、東京日日新聞を合併した。昭和十年、西部、中部両本社開設(朝日と同年)。昭和十八年現商号となり、題字を東西ともに毎日新聞に統一した。

読売新聞は明治七年創刊。昭和十八年報知新聞を合併、読売報知となる。昭和二十一年、報知を夕刊紙として分離、現題号に復題。昭和二十七年大阪進出、同三十四年北海道進出(朝、毎とも同じ)同三十六年、北陸支社開設。正力松太郎社主が、警視庁を退官して部数三、四万でツブれかかった読売を松山忠二郎から買い取ったのは、大正十三年だが、務台光雄副社長が請われて入社したのは昭和四年だから、現在の読売新聞の社史をいうなれば、この時期からとみるべきである。

こうして、三社の小史をひもとけば、戦前からの、朝日、毎日の二大紙対立時代は、容易に理解できよう。そして、戦時中の占領地のために、朝日の昭南(シンガポール)新聞、毎日のマニラ新聞と並んで、読売はビルマ新聞の経営、育成を軍から委託されて、読売もようやく、大新聞に次ぐ社会的評価が与えられたのであった。この事実をみても、日本の新聞は、戦争によって発展し、成長してきたことが明らかである。