正力松太郎の死の後にくるもの p.038-039 警視庁七社会詰め

正力松太郎の死の後にくるもの p.038-039 当時の警視庁記者クラブは二つあった。二階に「七社会」という、朝日、読売、毎日、日経、東京、共同通信、時事新報(のちにサンケイに吸収合併されて、事実上六社になった)の七社のクラブ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.038-039 当時の警視庁記者クラブは二つあった。二階に「七社会」という、朝日、読売、毎日、日経、東京、共同通信、時事新報(のちにサンケイに吸収合併されて、事実上六社になった)の七社のクラブ。

悲願千人記者斬り

私の手許に、二巻の録音テープがある。

読売新聞、いうなれば〝大正力〟の事蹟をみてゆくためには、同時に各社の実情とその人とを知らねばならない。その時、この二巻のテープの内容の話は、極めて示唆に富んでいた。

今は、故人となった某スポーツ紙の社長をはじめ、各社の四十名近い記者が登場する、このテープを聴いてみて、朝日、毎日、読売の三大紙についての、極めて象徴的な〝分析〟を、私は発見したのであった。

何故、象徴的というかといえば、氏名を明らかにされて、このテープに登場させられる記者たちは、十年余りも経た現在では、それぞれの社の、部長以上の幹部になっているからである。

——話は、そんな昔にさかのぼる。

私は、昭和二十七年から三十年まで、丸三年間、読売新聞社会部記者として、警視庁七社会詰めであった。

当時の同庁刑事部長に、極めて〝政治的〟な敏腕家がいた。彼は、のちに代議士に打って出たほどであるから、すでに双葉より香んばしかったのであろう。そして、当時の警察は、アメリカの占領から民主警察へ移行するという過渡期であったから、なおのこと、彼のような政治家によって〝家庭の事情〟を、新聞の監視外におかねばならなかったのであろう。

ともかく、「キャップ」会といわれるところの、「刑事部長懇談会」が月例となり、築地あたりの料亭で、ひんぱんに開かれていたことは事実であった。そして、料亭での宴会が終ると、銀座のバーに流れて、二次会、三次会というのがきまりであった。

今は二階に各記者クラブが広報課とならんで、一個所に集まっているが、当時の警視庁記者クラブは二つあった。二階に「七社会」という、朝日、読売、毎日、日経、東京、共同通信、時事新報(のちにサンケイに吸収合併されて、事実上六社になった)の七社のクラブ。三階にある「警視庁記者クラブ」は、時事の身代りでも、七社会に加えてもらえなかったサンケイ、NHK、東京タイムズ、内外タイムズ、それに民放各社などで組織されていた。

従って、私の経験や目撃談も、この七社会が中心であった。三階のクラブについては、言及の限りではない。ともかく、この刑事部長の〝宴会戦術〟は、言論統制を意図したものであって、各社のキャップと〝親密〟になることによって、警察の内部問題に対して、新聞が興味と関心を持つことを、未然に防止しようとするものであったらしい。