正力松太郎の死の後にくるもの p.050-051 「記事でとってる読者が五%」発言

正力松太郎の死の後にくるもの p.050-051 ただ一人、クズ鉛筆などを拾っている男がいる。 『あれは誰だ』『小島文夫という男です』『学校は何処かね』『社長の後輩、東大です』『あいつを部長にし給え』
正力松太郎の死の後にくるもの p.050-051 ただ一人、クズ鉛筆などを拾っている男がいる。 『あれは誰だ』『小島文夫という男です』『学校は何処かね』『社長の後輩、東大です』『あいつを部長にし給え』

「正力社長の早朝出社は有名で、一般社員より一時間早く出て社内を一巡する。この時、だだ広

い編集局にただ一人、クズ鉛筆などを拾っている男がいる。

『あれは誰だ』

『小島文夫という男です』

『学校は何処かね』

『社長の後輩、東大です』

『あいつを部長にし給え』(遠藤美佐雄「大人になれない事件記者」より。注。元読売社会部記者)」

小島は四十年十一月十五日、専務・編集主幹と昇格した直後に、社の玄関で倒れて逝ったが、その通夜の席で、記者たちは囁いた。

「ハリ公(小島の愛称)は、何のたのしみで新聞記者になったのだろうナ……」と。

彼は、その愛称をモジって、〝忠犬ハリ公〟と呼ばれるほどの正力の完全な番頭であった。 その端的な実例がある。いわゆる務台事件後の四十年六月、夏期手当をめぐる交渉委員会での発言だ。

「会社—会社の調査では、読売の読者のうち〝社主の魅力〟でとっているのが四〇%、〝巨人軍〟でとっているのが二〇%で、〝記事が良いからとっている〟というのは、わずか五%ぐらいだ。

組合—〝記事でとっているのが五%だ〟というのが、編集の最高責任者の言葉とすると、あまりにひどい。これではみんな記事を書く気も、働く気もしなくなる。

会社—社主の魅力が大きい以上、そうした記事(注。いわゆる〝正力コーナー〟と呼ばれて、当時、紙面にひんぱんに登場した正力動静記事)は扱わねばならない。批判的な読者の声も、ほとんど聞いていない(組合ニュース第十一号、六月十六日付)」

この「記事でとってる読者が五%」発言は、当時、全社的憤激をまき起し、小島は引責辞職にまで追込まれそうになったのだが、組合ニュース第十四号によれば、「会社側から陳謝」となって、危うくクビがつながった。これをもってしても、小島の人柄が判断されよう。

慄えあがった編集局長

小島のクビが危うかったことは、その前にもう一度ある。昭和三十二年秋の、例の「立松事件」の時である。売春汚職にからんで、社会部立松和博記者(故人)が、「宇都宮徳馬・福田篤

泰両代議士召喚必至」という、大誤報を放った時である。