このような、大新聞の「広報伝達紙」化の傾向は、今後、強まるとも、決して弱まりはし な
い。いよいよ、読者に媚び、大衆に迎合してゆくのである。そうすることによって、「大量生産」の「大量配布」という、「広報伝達紙」としての実力を保持できるのであって、もはや、そこでは、〝読者がつくる、あなたの新聞〟などという、マヤカシのキャッチフレーズはいらない。〝読者不在〟であるということは、新聞が個性を放棄することである。紙面が〝個性〟を放棄する時、それを作る記者もまた、個性を放棄せざるを得ないのである。
新聞が、「社会の木鐸」でなくなったように、新聞記者もまた、「無冠の帝王」ではなくなったのである。原編集局長をして〝孤高〟と評する所以もまた、そこにある。
記者のド根性
さらにまた、いくつかのエピソードを紹介せざるを得ない。
元読売社会部記者の遠藤美佐雄が、森脇将光の森脇文庫から出版したが、事情があって、陽の目を見ずに断截されてしまった、「大人になれない事件記者」の一節である。
「どこの新聞社でもそうだと思うが、社会部には二つの流れがあり、たがいに軽蔑し、反目している。事件派と綴り方派だ。これは、武断派と文弱派に似ている。才能というより血液型の違いだろう。
原さんは、典型的な綴り方派で、国民新聞から文才を買われて、読売新聞に入った人だ。……原氏も、社会部長として、はじめから私を使う気がなかったものでもなかろう。しかし、どうも私は、血液型があわない。私は彼の命令にしばしば反抗した。(中略)
『表へ出ろッ』
私は、社会部のデスクにあった鉛筆けずり用の、切り出しナイフを握って原に迫った。場合によっては、片腕ぐらい刺すつもりである。景山地方部次長が飛んできた……」
この遠藤の本は、このような叙述で〝私憤のバクロ書〟とされており、原をはじめ、登場させられた読売幹部たちから、名誉棄損の告訴をも受けたのであるが、実際に、多くの事実の誤まりを犯している。
例えば、読売社会部が第一回菊池寛賞をうけた「東京租界」という続きものは、私と牧野拓司記者の二人が取材に当ったのだが、これで取りあげた、鮮系米人のジェイソン・リィという、ギャングの親分を、同書では「原—三田—リィの線」などと、もっともらしく書かれているなど、 誤まりが多い。