正力松太郎の死の後にくるもの p.078-079 遠藤をさえも相当に評価していた

正力松太郎の死の後にくるもの p.078-079 原が、社会部の部会へ出た時、彼はこう訓示した。「読売の社会部というのは、読売新聞の主軸なンだ。かつて、遠藤とか三田とかいう記者たちがいて、身を以て築きあげた〝伝統〟をうけついで、仕事に挺身してもらいたい」
正力松太郎の死の後にくるもの p.078-079 原が、社会部の部会へ出た時、彼はこう訓示した。「読売の社会部というのは、読売新聞の主軸なンだ。かつて、遠藤とか三田とかいう記者たちがいて、身を以て築きあげた〝伝統〟をうけついで、仕事に挺身してもらいたい」

例えば、読売社会部が第一回菊池寛賞をうけた「東京租界」という続きものは、私と牧野拓司記者の二人が取材に当ったのだが、これで取りあげた、鮮系米人のジェイソン・リィという、ギャングの親分を、同書では「原—三田—リィの線」などと、もっともらしく書かれているなど、

誤まりが多い。

話はそれたが、社会部員の遠藤は部長の原に対して、先入主の偏見を抱いて、彼を極度に嫌っていたようである。

しかし、原の方が人物は数等上であった。告訴も児玉誉士夫が調停に入って、取り下げとなったのだが、それよりも、原が出版局長から、小島の病死のあとを襲って編集局長へともどってきて、社会部の部会へ出た時、彼はこう訓示した。

「読売の社会部というのは、読売新聞の主軸なンだ。かつて、遠藤とか三田とかいう記者たちがいて、身を以て築きあげた〝伝統〟をうけついで、仕事に挺身してもらいたい」

私の名前が出てくるのが恐縮だが、自分に対して悪感情を持ち、〝切り出しナイフをもって迫って〟くるような遠藤をさえも、原は仕事への情熱という点では、相当に評価していたことが、うかがわれる。

原の訓示の趣旨は、おおむね前記のようなものであったらしいが、訓示されていた、若い社会部の記者たちには、原のこのような〝檄〟も、あまり感動を呼ばなかったようだ。私に、その話をしてくれたある記者が、「遠藤だ、三田だといっても、時代が変っているのだから、あまりピンと来なかったようだ」とつけ加えていたからである。

また、私の名前が出たついでに、原はこうもいっている。昭和四十二年八月八日付の「新聞協

会報」は、全国学校新聞指導教官講習会における、原の「私の新聞制作の態度」と題する講演の要旨を報じているのだが、「取材対象には、できるだけ近付かねばならぬが、それと同時に、最後まで相手と対立する立場を維持しなければならない」「新人記者には、徹底的な 基礎訓練が必要である」とする、その講演の中に、次のようなクダリがある。

「社会部長時代、私の部下にいた優秀な事件記者が、取材に熱心のあまり、ピストル傷害事件の犯人をかくまい、記事を独占しようとしたことがあった。彼は、取材対象にあまりにも近づこうとして、本来守るべきルールを忘れてしまったわけだ。

彼の上司であった自分にも、当然、責任があったわけで、事件のあと〝あれほどの優秀な記者が、なぜあのようなばかげたことをしてしまったのか』と、反省してみた。彼が記者として成長してきた過程をふりかえると、彼は入社したあと、記者として十分な訓練をうけないうちに、すぐ兵隊にとられ、戦地とシベリアの抑留所で、長い年月をすごした。

帰国したのち、すぐに大きな事件を担当するようになり、また、これをこなすだけの力を持っていた。われわれも、これが本当の才能と信じていたわけだが、あとになって考えてみれば、彼には記者になるための、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが、大きな原因になっている、と思う」