前社長本田親男は、〝本田天皇〟と称せられるほどの、長期独裁政権をほしいままにした人であった。その〝本田天皇〟が〝御巡幸〟の旅に出られ、時間の都合で深夜おそく、宿泊予定の旅館に到着された時のことである。当該温泉地を管内に持つ毎日新聞支局長は、恐懼感激して御入浴を先導申しあげ、自ら〝天皇〟のお背中をお流し申しあげたのであった。時刻は、もはや午前二時をまわっていた。
田舎支局長の分際をもってして、〝天皇〟に直接御奉仕申しあげ、かつ、御下問の御奉答申しあげるチャンスは、それこそ、千載一遇とあっては、恐懼感激も無理からぬことであった。心地良げに、身体を流させているうち、〝天皇〟はフト呟いた。
「もう、三時になったかネ?」
「ハッ。まだでございます。只今、副参事でございます」
「⁉」一瞬、耳を疑ったかの如き表情であった〝天皇〟はこの老支局長の大マジメな返事の意味に気付いて、満足気にうなずかれたという。この作り話とも思えるエピソードには、さらにオチまでついている。〝御巡幸〟を終えられた〝天皇〟が、東京に帰られるや、この支局長のもとに、「任参事」の辞令がとどけられ、その〝御仁徳〟のほどが、偲ばれたというのである。
この寓話が表現している一切のことが、かつての毎日新聞の実態であった。参事、副参事といった身分制が、能力や仕事の実績よりも、情実とコネを重んじ、〝出世慾〟をカキ立てさせるシステムとなり、新聞人としてのプライドなどは、上司のオヒゲのチリを払ううちに吹ッ飛んでしまって、かりそめにも大毎日新聞の支局長でさえ、三助となり果てるということだ。
記者の夜討ち朝駆けは、ニュース・ソースに対してではなく、自分の上司への御機嫌奉仕としての、自宅詣りであって、時間をきかれても、身分だと感違いして気付かぬことは、彼らの念頭をうずめているものが、ニュースではなくて、出世であり、コネ作りであるということである。
かつまた、即坐に、参事に出世させてやる〝天皇〟の人事のろう断をも、付け加えている。
戦後、毎日新聞の幹部たちが追放されて、上の方が空いた時、当時大阪本社編集主幹兼主筆であった本田は、組合の推せんを得て、社長の地位に就いた。そして、この時の挨拶に、「私は社長ではなく、人民委員長である」と、宣言したという。古い毎日の記者たちは、そう聞いたというのだが、活字になった記録がないので、本田が〝人民委員長〟と、呼称したかどうかは明らかではない。しかし、〝人民委員長〟が〝天皇〟に変貌するまでの十余年の歳月は、由緒ある毎日新聞にとって、まことに惜しみある歴史の空白であった。試みに、戦後二十年間の毎日の紙面の動きを見てみるが良い。
「朝・毎」と一口で呼ばれ、良きにつけ、悪しきにつけ、政治新聞としてスタートしたこの二大新聞は、ライバルとして張り合い、共に日本のオピニオン・リーダーとして伸びてきたのであった。だが、戦後、村山、上野両家との闘いで、いわゆる〝近代革命〟を経験した、朝日新聞との差は、大きく開いていった。硬派新聞として、朝日との闘いに敗れた毎日は、紙面作りでの、朝日追随をアキラメて、読売に挑戦してきた。
朝・毎の政治新聞としてのスタートに対して、読売は、根ッからの大衆新聞として生れてきていた。そして、昭和十年代に躍進をつづけて、朝毎の牙城に迫り、二紙対立の時代から、三紙てい立の時期へと入ってきていたのである。その読売もまた、戦後に〝革命〟を体験していた。二
度にわたるスト騒ぎである。そして、その結果、朝日と同様の体質改善が行なわれていたのである。