正力松太郎の死の後にくるもの p.170-171 練習生制度が「大朝日」意識の根幹

正力松太郎の死の後にくるもの p.170-171 ものはいいようである。練習生が吐き出すような口調でいった、〝コドモさんあがりの記者〟という、終身、平記者ですごす一群の人たちが、そのように運命づけられて、〝朝日記者〟とはいっても〝汚れ役〟をやるのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.170-171 ものはいいようである。練習生が吐き出すような口調でいった、〝コドモさんあがりの記者〟という、終身、平記者ですごす一群の人たちが、そのように運命づけられて、〝朝日記者〟とはいっても〝汚れ役〟をやるのである。

大正十二年の新入社員月給が七十五円。このベラボウな高給が、やはり、朝日の伝統となってゆくのである。私が、読売に入社した昭和十八年十月。戦前、最後の試験入社組、採用と同時に、見習社員である。朝日の練習生に相当しよう。試験によらない入社組は、準社員と呼ばれていた。軍隊の階級でいえば、見習士官と準士官の差である。

その時の私の月給が、俸給六十五円、物価手当二十円の計八十五円。貯金八円、税三円五十銭のほか、健保や積立金をひかれて、手取り七十円三十銭である。大正十二年から二十年後の読売の初任給が、朝日と同じだということである。

朝日の、この練習生の精神教育というのが、まさに日本陸軍の士官学校と同じである。幹部候補生を教育する予備士官学校は、あくまで下級幹部の養成である。現役志願をしても少佐どまりで、やっと中堅幹部だ。だから幹部候補生は、一般兵と全く同じ生活、教育訓練を経てくるので、残飯喰いから馬グソ拾い、ビンタからホーホケキョまで体験して学校に進む。

だが、大将、元帥へと進む士官学校では、エリート少年だけを集めて、汚濁にもませることなく、徹底した指導階級の育成をめざしている。三代将軍家光の宣言「予は生れながらの将軍にして」と、全く同じである。朝日の「練習生」制度は、士官学校の士官候補生制度と、軌を同じゅうしていよう。大正十二年から、ほぼ半世紀も続いてきた、この練習生制度が、「大朝日」意識の根幹である。

細川隆元の大正十二年で二百五十人に十五人、佐藤信の昭和二十三年で二百人に一人(同期七人採用)という競争率もまた、当時の俊秀を集めた、士官学校、兵学校の競争率に匹敵するであろう。ちなみに、昭和十八年の読売は五百人に十人採用であった。大正十二年の朝日と、俸給、競争率がほぼ同じである。

だが、軍隊には下士官、兵という〝汚れ役〟がいるが、軍隊の戦闘にも似た、記者の取材戦争で、練習生の将校ばかりでは、一体、誰が兵隊の〝汚れ役〟をやるのか?

ある練習生記者の一人がいう。「そのために、コドモさん(注。給仕あがりの記者)がいるんだ」

草柳大蔵はいう。「待遇制度のような措置をつくり、社員として出世するコースのほかに、記者として完成するコースを設けていることだ。いわば、朝日の記者街道は〝二車線〟になっている」(現代王国論)

ものはいいようである。練習生が吐き出すような口調でいった、〝コドモさんあがりの記者〟という、終身、平記者ですごす一群の人たちが、そのように運命づけられて、〝朝日記者〟とはいっても〝汚れ役〟をやるのである。練習生以外の社員である。

朝日新聞の社員名簿を繰ってみたまえ。カッコ内に、部長待遇、次長待遇などの肩書きのついた、平社員の名が並んでいる。そればかりではない。社友二五三名、客員九八八名、定年者三○五名、年金者二六九名が、現役社員と共に並んでいる。社友は退職時の〝階級〟が局次長待遇以

上、客員は次長待遇以上、定年者は平社員、年金者は停年前に受給資格を得た人と、ハッキリと身分制度、階級制度が敷かれていることを示している。