正力松太郎の死の後にくるもの p.202-203 いわゆる〝務台文書〟配布事件

正力松太郎の死の後にくるもの p.202-203 務台が「オレは、ただの副社長ではないのだゾ。生半可なことでは、読売とオレとの仲を割くことはできないのだゾ」と、小林に対して、その〝意志〟を明らかにしたのだ、という、〝下司のカングリ〟が、流れはじめたのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.202-203 務台が「オレは、ただの副社長ではないのだゾ。生半可なことでは、読売とオレとの仲を割くことはできないのだゾ」と、小林に対して、その〝意志〟を明らかにしたのだ、という、〝下司のカングリ〟が、流れはじめたのであった。

現況把握のための〝勉強会〟であるなら、部長がデスクやキャップから話をきくように、副社長は、部長クラスか、編集総務(注。編集局長の補佐役として、同様に数人いる)あたりにレクチュアさせるべきだろう。それなのに、小林は、もっと若手を講師に起用して、二次会へと流れても、

器用にその連中の気持ちをつかんでいるようである。つまり、小林は編集の現場とのコミュニケーションをもとうとしていると、解されるのである。

このことは、本稿冒頭でもふれたように、小林には、務台と対立拮抗しようという意志がなく、五、六年先の政権担当を描いているということである。務台も、もうそのころには、八十歳に手がとどくころで、新社屋の建設も終って、正力に托された〝正力の夢〟を実現して、功なり名をとげての引退、という時期である。

従って、読売においては、実に、ポスト・ショーリキではなくして、ポスト・ムタイが現実の問題だということである。だが、ことさらに騒ぎを好むヤジ馬の常として、務台と小林の動きを、対立させて考える動きがあるのである。

読売の重役会の様子をきいてみると、常務会などでは、原四郎の独り舞台だそうである。他の常務たちは、そこで、何か仕事をしようという時には、どうしても、務台か小林かの、どちらかの副社長を立てて、やらざるを得ない。そのため、ともすれば、務台、小林の〝対立〟なるものが、秘やかに〝喧伝〟されるということになるらしい。

さきごろの、いわゆる〝務台文書〟配布事件というのも、〝怪文書事件〟扱いをされているが、務台が、務台の個人名で発送したことを認めているのだから、〝怪文書〟ではない。そして、務台側近のいう「意外な反応」とは、このようなことである。

コピーの配布を、〝務台の先制攻撃〟とみるのが、いわゆる〝意外な反応〟なのであった。つまり、これは、務台が「オレは、ただの副社長ではないのだゾ。オレが読売に入社し、終戦の年に正力に殉じて去り、ふたたび復社するについては、これだけの経緯があってもどったのだゾ。生半可なことでは、読売とオレとの仲を割くことはできないのだゾ」と、小林に対して、その〝意志〟を明らかにしたのだ、という、〝下司のカングリ〟が、流れはじめたのであった。

そのカングリは、さらに、「それでは、務台、小林間に、すでにそのような〝情勢〟がかもし出されていたのか!」と発展し、一波乱はまぬかれないものと、期待する向きも出てきたのである。そのような〝向き〟とは、必ずしも、読売社内だけとは限らない。当面の外敵、朝日もそうであるし、毎日、サンケイ、あるいは、報知、日本テレビなどの、コンツェルン系統にもあろう。

これらは、あくまで〝下司のカングリ〟にすぎないのであるが、私は、これを別な形でとらえて、「務台の政権担当の決意表明」ととる。もちろん、全社員への〝檄〟の意味もこめられていよう。

私の務台インタビューの時点で、まだ、発送こそされてはいなかったが、計画は進んでいたハズである。しかも、務台の話の中で、それらの片鱗は現れているのだった。私が、「決意表明」とみる理由はこれまで、しばしば示してきた務台のあの〝熱気〟である。だからこそ、朝日打倒と新社屋建設が、務台の〝男の花道〟というのである。