朝日記者は〝詫び〟ないで〝叱る〟
すでに、〝地を払ってしまった〟読売精神について、例証を重ねてきたのであるが、これはなにも、読売だけの問題ではない。朝日新聞とて同様である。〝見失なわれた〟大朝日意識について述べよう。
「大朝日意識」なるものは、練習生制度という、特権階級を設けることによって、誇りと自信とをもたしめ、かつ、さらにそれを高給で裏打ちして、半世紀もの長い年月をかけてブレンドしてきた、「士魂商才」の人、村山竜平の芸術品であった。
その意味で、先代の村山竜平という人物は、全く具眼の士であった。貿易商というその職業も、大阪商人としては、明治十二年の当時としてはカッコイイものであったと思われる。「大阪商人が仕事はうまいが教養に欠け、金銭にはさといが品位が落ちるのを感じたからだという。村山自身は伊勢田丸藩の出身で、多少とも学問の素養があったことから、新聞の啓蒙的機能に着眼した」(草柳大蔵)のが、朝日創刊の動機だという。
もとより、新聞はその発生からして、野党精神——反権力の立場をとるのが当然であるが、本質的に「反体制」ではあり得ないのである。五百五十万の部数と四本社一万社員を擁するマスコミである朝日新聞は、体制の内側にあればこそ存在できるからである。
村山竜平の〝商魂士才〟は、三顧の礼をもって津田貞を迎えたのにはじまり、池辺三山、鳥居素川から、知名度の高いのでは、二葉亭四迷、長谷川如是閑、夏目漱石、下村海南、杉村楚人冠といった、そうそうたるメンバーを招いて、論壇を固めた。
近年では、柳田国男、前田多門、笠信太郎、佐々弘雄、嘉治隆一らを、論説委員として迎え、朝日のクオリティペーパーとしての伝統を築きあげたのである。このように、博く知識を求める一方、大正十二年から、大学卒業生を試験採用して、「練習生」という特権階級をつくり、「大朝日意識」の涵養につとめたのである。このような朝日育ちの論説人には、緒方竹虎、鈴木文史朗、杉村楚人冠、門田勲、荒垣秀雄、森恭三らがおり、先人の衣鉢を継いだのであった。
このように人材を集め、育て得た村山竜平の経営手腕は高く評価さるべきである。だからといって〝軍閥に抵抗し財閥に汚されず〟(草柳大蔵)というのは、幇間的追従にすぎよう。新聞史をひもとけば、日本の新聞は戦争によって、資本家とともに成長し、発展してきたのである。朝日とて例外ではない。
昭和三十年代が、新聞変質の過渡期であったことは、前にも述べたが、新聞の巨大化が進むと 同時に、〝スター記者〟は次第に消えていった。笠信太郎が去り、森恭三が退くとともに、村山竜平の、〝商魂士才〟も、ついに士才を失って、商魂のみが残ることとなった。