正力松太郎の死の後にくるもの p.238-239 村山夫人の命令に動かなかった朝日

正力松太郎の死の後にくるもの p.238-239 いわゆる〝朝日騒動〟がはじまる。村山夫人が宮内庁の役人の一人に胸をつかれて、ロッ骨二本を折るという事件が起った。激怒した夫人は、このニュースを朝日が大々的に報道することを編集に要求した。だが、編集は動かなかった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.238-239 いわゆる〝朝日騒動〟がはじまる。村山夫人が宮内庁の役人の一人に胸をつかれて、ロッ骨二本を折るという事件が起った。激怒した夫人は、このニュースを朝日が大々的に報道することを編集に要求した。だが、編集は動かなかった。

昭和三十年代が、新聞変質の過渡期であったことは、前にも述べたが、新聞の巨大化が進むと

同時に、〝スター記者〟は次第に消えていった。笠信太郎が去り、森恭三が退くとともに、村山竜平の、〝商魂士才〟も、ついに士才を失って、商魂のみが残ることとなった。いうなれば「カッコよさ」だけの新聞になり果てるのである。反権力に加えて、反体制の紙面をつくりはじめる。桶谷の指摘する通り、だから売れるのである。部数が伸びるのである。

だが、これで「大朝日新聞」は安泰であろうか。否。私は否という。

士才——新聞の義務と責任とを忘れて、商魂のみたくましい「カッコよさ」は、僅かに「宅配」制度に支えられているからだ。宅配はやがて変形し、崩壊するからである。カッコイイから朝日を購読している読者は、宅配なればこそ、つなぎとめられる読者である。宅配制度が崩れた時、〝商魂〟の朝日は大きく傾くに違いない。

昭和三十八年十二月二十四日の、第八十九回定時株主総会において、永井大三常務罷免が決った時から、いわゆる〝朝日騒動〟がはじまるのであるが、村山家対会社の紛争は、実はその春、三月二十二日に原因はさかのぼる。

朝日主催のエジプト美術展に、両陛下が鑑賞に見えられるというので、これをお迎えすべく、村山社主夫妻も参列していた。そして陛下のあとに従って館内を進んでいるとき、進みすぎた村山夫人が、後にさがれという指示のつもりの、宮内庁の役人の一人に胸をつかれて、ロッ骨二本を折るという事件が起った。

激怒した夫人は、このニュースを朝日が大々的に報道することを編集に要求したと伝えられている。だが、編集は動かなかった。朝日ばかりではない。他の一般紙もいずれも書かなかった。このとき夫人は、はじめて社主のいうことをきき入れない朝日新聞の存在に気付いたようである。

私も、この事件のウラ側の詳しい話は知らない。しかし、村山夫人の命令に動かなかった朝日の編集幹部は、もし、この事件を報道すれば、誰よりも一番困られ、苦しまれるのは、天皇陛下だということを、よく知っていたからであろう。

天皇陛下をお悩まし申しあげたら朝日は一体どうなるであろうか。二百五十人もの共産党員がいて、日本を共産主義に売り渡そうとして、懸命に世論をリードしようとしている朝日新聞、であったなら、反体制、天皇制批判の絶好のチャンスではなかったか?

天皇を悲しませた朝日——このレッテルが貼られた時、大朝日新聞は、河野一郎亡きあとの〝河野王朝〟よりも急速に、その一世紀の栄光を失うであろう。〝商魂〟の会社側幹部は、それを見通していた。

私物視していた朝日新聞が、自分のいうことをきかなくなっていた、というので、その年の暮から騒動がはじまるのだが、それが、〝私物〟と〝金儲け〟の衝突であってみれば、クオリティ・ペーパーどころか、クオンティ・ペーパーであって、少しも不思議ではない。