正力松太郎の死の後にくるもの p.242-243 新聞の紙面であるという自覚と責任

正力松太郎の死の後にくるもの p.242-243 朝日のニセ投書は、まさか「声」欄が意識的に作ったものではなかろう。しかし、問題のある投書を、本人に確認しないし、事実の有無を調べもしないというのでは、意識的に掲載したというべきであるし、現実に被害があるのだから、罪は重いのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.242-243 朝日のニセ投書は、まさか「声」欄が意識的に作ったものではなかろう。しかし、問題のある投書を、本人に確認しないし、事実の有無を調べもしないというのでは、意識的に掲載したというべきであるし、現実に被害があるのだから、罪は重いのである。

可能な限りの調査をした、と高松はいうが、何故、本人に会って確認しないのか。第一、この

二つの投書は、「声」欄どころか、社会面のニュースである。「声」欄に人手がなければ、どうして社会部記者を使わないのか。本人に確認できなければ、何故、掲載日を遅らせないのか。すべてにおいて、何の弁解すら許されない、全くの初歩的なミスを犯して、かつクビになることもなく、平然と新聞協会の座談会に出席する神経? 社内問題である特オチ(大ニュースを自社だけが落すこと)とは、本質的に違う、二人の公人の名誉に関する問題である。この紙面に対する編集局長以下の無責任さ加減は、何を示しているのだろうか。

朝日ジャーナルのケースもまた、同大学学生課長の痛烈なる反ばく文(前出「軍事研究」誌43・10月号)を読めば、匿名希望だというのに、その内容の調査すらしていない。出版局長岡田任雄もまた、進退を考えるべきであった。

朝日のニセ投書は、まさか「声」欄が意識的に作ったものではなかろう。しかし、問題のある(個人的な感慨ではなくて、社会的に影響のある)投書を、本人に確認しないし、事実の有無を調べもしないというのでは、意識的に掲載したというべきであるし、現実に被害があるのだから、罪は重いのである。

「係から——私たちは投書される方を信頼しています。『声』欄が健在であるためには、信頼と責任が必要です。——(一月の事件の時に)係はこう訴えました。——事柄により確認を要する場合は、電話あるいは電報で照会することにしておりました。しかし、また悪質な一人のいたず

ら者のために、——投書の生命である責任と信頼を傷つけたものとして、残念でなりません。

——名誉棄損に該当するばかりでなく、広く基本的人権のじゅうりんであり、『声』欄の読者を侮辱したものと、いわざるを得ません」(43・7・21「声」欄)

署名こそないが、高松のものと思われる、この「係から」の一文をよく読んでみると、「声」欄は朝日と関係のない、独立した印刷物で、何かの同好会の機関紙と同じである。朝日家庭欄の「ひととき」欄の〝発言する主婦グループ〟「草の実会」のニュースと同じ発想である。

大朝日新聞の投書欄という、政治、経済、社会面と質的に匹敵する〝紙面〟が、かくもお遊び精神で作られているとは知らなかった。第一、読まれる程度からいって、社説とどの位違うか、感覚的にも判断され得よう。

「ひととき」欄は、井戸端会議の猥雑さに堪えられなくなった、〝発言趣味〟の女性たちの、身辺雑感のストレス解消の場である。例えてみれば、主婦相手のモーニング・ショーでは成功したかもしれないが、ハプニング・ショーという、悽愴苛烈な現実の社会では、惨めな実力のほどを思い知らされた「木島則夫」ショーのごときものである。それほどの差のある、「ひととき」と「声」なのだ。

ところが、さきの「係から」の一文には、その認識が全くない。「声」が健在であるためには、「係」の自覚と責任こそが必要なのである。新聞の紙面であるという——。自民党区議の事件

以来、「電話や電報」で確認するというが、「確認」とは、手段ではなくて、「結果」なのである。すると、事件以前は、手紙かハガキだったのであろうか。