果せるかな、文中には、E紙記者、C紙記者、D紙記者、B紙記者という、〝無責任な談話者〟が、この順で登場してくる。イニシアルでないのなら、登場順にB、C、D、Eと出せばよいものを、そこにゴマ化しがうかがわれるのだ。そのくせ最後には、T紙記者が出てくる。これですべて社名のイニシアルと、思いこませようという〝詐術〟である。週刊文春の特集「あの〝特ダ
ネ〟記者は今どうしている?」(40・10・18)に登場させられた、私自身の体験からいっても、「と氏に近い人は説明する」「氏の友人の一人はいう」「というのは、ある古手の社会部記者だ」と、多くの人物に取材しているような表現をとっても、実はすべて私一人の話なのである。
話が横道にそれたが、伊藤の抗議と反論にもどろう。本文中「六人の刑事」について、伊藤の談話と思われるものがある。
「警察官が民衆に協力を求める場合の態度、警察と民衆のつながり、を考えてほしかったですね。相手の社会的地位、収入状態、服装などによって、態度や言葉づかいがちがうでしょう。それでいいのか、ということです。警察官のモラルといったものも、あるのじゃないか。それを問題にしたかった」
伊藤の署名のある文にも、事実の違いや、論理のつじつまについての指摘以外、伊藤の「意 見」がでている。
「私たちは、日ごろ取材活動の中で、公務員、とくに警察官の市民に対する行動が、ややもすると慎重な配慮を欠き、人権侵害になりかねない事例を少なからず見受ける。いまの日本では、そうした場合、市民の泣き寝入りに終るのが普通である。警察官対市民個人の関係では、〝弱いもの〟は通常市民である。弱い市民のために、キャンペーンすることはおかしい、というのが、D
紙記者の意見ならば、私は賛成できない」
さきに述べたように、この二つの文章を読んでみると、「声」欄と全く同じように、朝日 の社会部長たる者が、新聞記者という立場——根本的な大前提を忘れていることを責めねばならぬ。
前者は、宝石レポートの文中の談話だから、伊藤の文章ではない。従って、ニュアンスの違いもあろうが、後者は伊藤のものだ。前の談話は、シナリオ作家か、演出家、もしくはプロデューサーの〝談話〟である。これをもしも、「報道の姿勢」というならば、それもよかろう。しかし、その姿勢で、その姿勢さえあれば、記事は、極言すれば、ウソでもよいというのか。
警察官と民衆のつながり、警察官のモラル——それを〝問題化〟したかったのは理解できるが、果して、「六人の刑事」事件は、朝日の報道が、事実を伝えていて「公正な報道」なのか、どうか。その点が明らかにされていないではないか。
読者は、入浴したのか、シャワーで身体をふいたのか。ソバ代を払ったのかどうか。警視庁の「記事取消しを含む善処方」申し入れを、どう処理したのか。知りたいのは事実だけである。
「公正なる報道」とは、国民の基本的な権利である「知る権利」の代理行使である。つまり、新聞記者や新聞社が得ている、いろいろな特権(例えば、刑法の名誉棄損の免責条項など)は、知る権利の代理行使のために、国民が新聞人に許しているものであって、いうなれば、〝公僕〟である。記者は「知る権利」への奉仕者なのである。