正力松太郎の死の後にくるもの p.282-283 小和田次郎(デスク日記の著者)のレポート

正力松太郎の死の後にくるもの p.282-283 小和田はいう。「目にみえて右傾化していった朝日が、振り子をふたたび元にもどし、ここ二、三年の朝日の紙面は、ふたたび政財界をして、偏向マスコミのチャンピオンのように目されてきた。」
正力松太郎の死の後にくるもの p.282-283 小和田はいう。「目にみえて右傾化していった朝日が、振り子をふたたび元にもどし、ここ二、三年の朝日の紙面は、ふたたび政財界をして、偏向マスコミのチャンピオンのように目されてきた。」

「潮」別冊冬季号(四十三年)に、「マスコミに奏でられる〝転向マーチ〟」という、小和田次郎(デスク日記の著者)のレポートがある。
「六八年十月四日、京都で日経連五十嵐事務局長が講演した『安保問題と労働組合』の中で、六

〇年以後、過去九年間のマスコミ工作によって、いまや『朝日、TBS、共同通信』の三社以外は、まったく心配はいらないという、判断が表明されている。残る〝マスコミ偏向トリオ〟に攻撃を集中すればよい、という認識である」

小和田によれば、日経連は〝マスコミ偏向トリオ〟として、その三社の名前をあげているというのであるが、私は改めて〝偏向〟の定義を考えざるを得ない。小和田はいう。

「……このような情勢の中で、日本の新聞、放送は深い〝反省期〟にはいった。

一九六一年六月号の朝日社内報〝朝日人〟のなかで、当時の笠信太郎論説主幹は、『政府と新聞』と題する論文をまとめ、安保報道に対する総括をしている。

……真実を書き、それを国民のまえに明らかにすると、いまの日本の国民はすぐ起ちあがり、大衆運動が盛り上がって、政府・自民党や財界を窮地に追い込んでしまうような危険な情勢であるから、じゅうぶん気をつけなければならないという、『ものの見方考え方』を表明したこの笠論文は、六〇年安保後のマスコミのあり方を理論化したものであった。日本マスコミ界の代表的イデオローグとしての、笠信太郎が指し示したこの道こそ、その後の新聞、放送のたどってきた道であるといえよう。

…〝偏向ご三家〟の最大のマスメディアとよばれる朝日はどうか? 広岡社長は六八年十月十

五日付の朝日に『朝日新聞の姿勢』と題する大論文をのせ、そのなかで『ときおり政府、与党あるいは財界などの一部に、朝日新聞は〈反米〉〈反政府〉だとする声が、底流としてあるように聞く。だが、朝日新聞が、意識的にそうした立場から作られている事実はまったくないし、誤解もはなはだしいという以外にはない』と釈明している、同じ日の朝日社説も『新聞人の責任』と題して偏向問題を重大視し、政財界からの偏向攻撃に対する反論を試みている。朝日が六八年の新聞週間にあたって、社説と社長論文まで掲げてわざわざ『偏向間題』を取り上げて釈明し、反論につとめなければならなかったことは、朝日への偏向攻撃の激しさを示すものである。と同時に、朝日が外部からの偏向攻撃を、それだけ強く意識していることの表明とも受けとれる。

…六〇年安保を機に、目にみえて右傾化していった朝日が、六三年末からのお家騒動を経て、しだいに振り子を、ふたたび元にもどしはじめ〝朝日右翼時代〟とよばれた時代にようやく別れをつげ、ここ二、三年の朝日の紙面は、ふたたび政財界をして、偏向マスコミのチャンピオンのように目されてきた。オーナー村山家との抗争で、広岡現社長らは社員大衆の支持にのって勝利を得たという事情も、その一つの要因と考えられる。

しかし、滔々たるマスコミ反動化シーズンの中で、朝日の振り子が戻るのもみずから限界がある。六八年三月一日付けで、伊藤牧夫社会部長が、西部本社の編集局長(筆者注。局次長の誤まり)に〝栄転〟した背景にも、社会面の安保報道に対する自己規制のあらわれという一面がうかがわ

れた。