正力松太郎の死の後にくるもの p.326-327 三流週刊誌のデッチあげの手口と同じ

正力松太郎の死の後にくるもの p.326-327 林理介の社長賞記事は、その後になってから、「ガセ(ニセモノ)だ」「写真は、中部ジャワの新聞に出たものを学生から買い取った」と、中傷の風説が流れはじめた。この〝中傷〟は当然である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.326-327 林理介の社長賞記事は、その後になってから、「ガセ(ニセモノ)だ」「写真は、中部ジャワの新聞に出たものを学生から買い取った」と、中傷の風説が流れはじめた。この〝中傷〟は当然である。

毎日の外報部長大森実がハノイに入った時、秦も後を追うようにハノイに入った。二人が北ベ

トナムから出てくると、アメリカは二人をワシントンに招待した。ラスク国務長官に会わせるから、というのである。

その話を聞いた時、私はハハンとうなずいた。私が抑留されてシベリアにいた時、ソ連人の強制労働者たちに、意外にアメリカ・ファンが多いのである。不思議に思って聞いてみると、こうだ。

彼らは独ソ戦で捕虜となり、ドイツの収容所にいたのだが、やがて米軍がやってきて、彼らを接収した。向う側まできているソ連軍に引渡されるかと思うと、彼らは全員アメリカ本国へ〝連行〟されて、資本主義的〝洗脳〟を施されたのである。そして、祖国ソ連に凱旋した。するとドイツに捕虜となった罪状で、シベリアに〝矯正労働〟へと送られたという次第であった。

彼らは口を揃えていう。「カピタリズムはいい。食べ物も着るものも沢山ある。もし、アメリカと戦争になったら、投降してアメリカに行くんだ」と。

大森はアメリカの招待を断ったが、秦はよろこんで出かけ、ラスク長官との会見記をモノにした。アメリカの記者でさえ、ラスクにはなかなか会見できない時であったのに……。

一体、秦をこうさせるのは何だろうか。

昭和四十一年二月七日付の朝日は、林理介ジャカルタ特派員の大スクープを掲載した。九・三○クーデターの立役者、アイジットの自供書である。林は、この特ダネで、社長賞として金メダ

ルと金十万円也を獲得したという。全面を埋めたアイジット自供書には、さらにアイジットの最後の姿を伝える、三枚の写真がそえられていた。社長賞、結構である。写真も迫力があり、自供書も面白い。だが私は疑問をもった。林特派員は、その前文で「……本社は入手した。……」とのみしか書いていない。そこが一点ひっかかるのであった。

その前年、といっても二カ月ほど前の、四十年十一月二十日付の毎日新聞朝刊第一面は、前述の通り「ウントン中佐の自供書を入手」と、大森の署名入り大原稿で埋められていたのであった。これもまた、前文では「……私が(東京で)入手した自供書によれば……」とある。

林のスクープは、この毎日記事への対抗記事であることは明らかである。外報の場合、「何日何処発——」と、クレジットを付すのが常識である。このクレジットが読者にその記事の信ぴょう性を判断させるためのものであることは、新聞のイロハである。

さて、林の社長賞記事は、その後になってから、「ガセ(ニセモノ)だ」「写真は、中部ジャワの新聞に出たものを学生から買い取った」と、中傷の風説が流れはじめた。抜かれた社のイヤガラセだともいえるが、この〝中傷〟は当然である。写真についても、転載なら転載と書くべきだし、自供書も、ただ「本社は入手した」では困る。これは、三流週刊誌のデッチあげの手口と同じだからだ。

大森のウントン自供書は、彼の退社後に、公判廷でウントンが否認したと、「シンガポールで

きいたジャカルタ放送=UPI」の外電が伝えた。しかし、アイジットは死んでいるので、自供書は否定されなかった。死人に口なし、書けば書き得、であった。