はたまた外報の朝日か」タグアーカイブ

正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次6~7 1章トビラ

正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)
正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)

6 朝日・毎日の神話喪失

朝日記者は〝詫び〟ないで〝叱る〟/朝日の紙面は信じられない/司法記者の聖域〝特捜 部〟/新聞代の小刻み値上/宅配は必らず崩れる/朝日はアカくない/振り子はもどる朝 日ジャーナル/銀行借入金、ついに百億突破/東京拮抗の毎日人事閥/〝外報の毎日〟はどこへ/はたまた〝外報〟の朝日か

7 ポスト・ショーリキ

「武を……」という遺言/報知、日本テレ、タワーが駄目……/大正力の中の〝父親〟/〝マスコミとしての新聞〟とは

あとがき

1章トビラ 正力松太郎の死の後にくるもの

1 正力さんと私(はじめに……)

正力松太郎の死の後にくるもの p.324-325 朝毎は「アカの巣くつ」証言

正力松太郎の死の後にくるもの p.324-325 各社の外報記者たちは、ライシャワー大使に会見を求めて、米大使館につめかけていた。朝日の外報部長だった秦正流が突如として口を切った。「どうだい、みんな。こんな問題はなかったことにしようじゃないか」
正力松太郎の死の後にくるもの p.324-325 各社の外報記者たちは、ライシャワー大使に会見を求めて、米大使館につめかけていた。朝日の外報部長だった秦正流が突如として口を切った。「どうだい、みんな。こんな問題はなかったことにしようじゃないか」

私の結論としては、ウントン自供書なるものが、CIAの謀略文書であるかどうかは、「データ評論」という(昨今の評論家たちのはすべて〝ムード評論〟でありすぎる)、データにもとづく評論という、私の主張から、にわかには断じ難い。ただ、前述のように、外信部長として、

「自供書」と断定して発表するには、慎重を失したといえよう。

はたまた〝外報の朝日〟か

かつて朝日は、〝外報の朝日〟とさえよばれていた。だが、内部でさえも、「森恭三(社友、論説顧問)の退役で、〝外報の朝日〟は終った」と、批判する者もいる。外報記者——外国特派員に要求されるものの第一は、高度な判断力である。何しろ、遠い異境の地にあって、ただ一人で記者活動をするのであるから、単なる現象を報ずるリポーターであってはならない。

国内のつまらない事件ならば、少々ばかり宣伝に利用されても、大した影響がないのだから、まだよかろうが、これが、外報記者の問題となってくると、いささか違う。そこに広く深い知識、素養にもとづく、高度な判断力が要求されてくるのである。

朝日が、〝外報の朝日〟の名をほしいままにしていたということは、それに値するだけの外国特派員群をもっていたことである。だが、その昔日の栄光は消えて、今や〝スポーツの朝日〟なのだそうである。これもまた、硬派対軟派の抗争なのであろうか。

さる四十年四月二十九日、アメリカの二大通信社であるAP、UPIが、そろって打電した記事は、朝毎は、「アカの巣くつで、そのためアメリカのベトナム政策が批判されるのだ」というもの。米上院外交委員会が、四月七日に開いた、一九六六会計年度の軍事援助に関する秘密聴聞会での、ポール国務次官、マッカーサー同補の証言内容についての記事であった。

これに対し、朝日、毎日両紙は、それこそ〝猛然〟と反ばくしたが、翌日の両紙を見くらべると、毎日の怒りにみちた大扱いに対して、朝日のそれは、何事か次の段階のことを考慮したようなタメライを感じさせた。

不思議に思った私は、当時、その事情を調べてみると、入電した各社の外報記者たちは、ライシャワー大使に会見を求めて、米大使館につめかけていた。大使が現れるのを待っている間に、朝日の外報部長だった秦正流(大阪編集局長)が突如として口を切った。

「どうだい、みんな。こんな問題はなかったことにしようじゃないか」

すぐ反対したのはNHKだった。もうニュースとして流してしまったという。この話を、当時同席していた十社ほどの外報記者の一人から聞かされて、これは一体何だろうかと考えてみた。そして、翌日の反ばく紙面が、朝日と毎日と大きく違っていることと併せ考えさせられたのであった。

毎日の外報部長大森実がハノイに入った時、秦も後を追うようにハノイに入った。二人が北ベ

トナムから出てくると、アメリカは二人をワシントンに招待した。ラスク国務長官に会わせるから、というのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.326-327 三流週刊誌のデッチあげの手口と同じ

正力松太郎の死の後にくるもの p.326-327 林理介の社長賞記事は、その後になってから、「ガセ(ニセモノ)だ」「写真は、中部ジャワの新聞に出たものを学生から買い取った」と、中傷の風説が流れはじめた。この〝中傷〟は当然である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.326-327 林理介の社長賞記事は、その後になってから、「ガセ(ニセモノ)だ」「写真は、中部ジャワの新聞に出たものを学生から買い取った」と、中傷の風説が流れはじめた。この〝中傷〟は当然である。

毎日の外報部長大森実がハノイに入った時、秦も後を追うようにハノイに入った。二人が北ベ

トナムから出てくると、アメリカは二人をワシントンに招待した。ラスク国務長官に会わせるから、というのである。

その話を聞いた時、私はハハンとうなずいた。私が抑留されてシベリアにいた時、ソ連人の強制労働者たちに、意外にアメリカ・ファンが多いのである。不思議に思って聞いてみると、こうだ。

彼らは独ソ戦で捕虜となり、ドイツの収容所にいたのだが、やがて米軍がやってきて、彼らを接収した。向う側まできているソ連軍に引渡されるかと思うと、彼らは全員アメリカ本国へ〝連行〟されて、資本主義的〝洗脳〟を施されたのである。そして、祖国ソ連に凱旋した。するとドイツに捕虜となった罪状で、シベリアに〝矯正労働〟へと送られたという次第であった。

彼らは口を揃えていう。「カピタリズムはいい。食べ物も着るものも沢山ある。もし、アメリカと戦争になったら、投降してアメリカに行くんだ」と。

大森はアメリカの招待を断ったが、秦はよろこんで出かけ、ラスク長官との会見記をモノにした。アメリカの記者でさえ、ラスクにはなかなか会見できない時であったのに……。

一体、秦をこうさせるのは何だろうか。

昭和四十一年二月七日付の朝日は、林理介ジャカルタ特派員の大スクープを掲載した。九・三○クーデターの立役者、アイジットの自供書である。林は、この特ダネで、社長賞として金メダ

ルと金十万円也を獲得したという。全面を埋めたアイジット自供書には、さらにアイジットの最後の姿を伝える、三枚の写真がそえられていた。社長賞、結構である。写真も迫力があり、自供書も面白い。だが私は疑問をもった。林特派員は、その前文で「……本社は入手した。……」とのみしか書いていない。そこが一点ひっかかるのであった。

その前年、といっても二カ月ほど前の、四十年十一月二十日付の毎日新聞朝刊第一面は、前述の通り「ウントン中佐の自供書を入手」と、大森の署名入り大原稿で埋められていたのであった。これもまた、前文では「……私が(東京で)入手した自供書によれば……」とある。

林のスクープは、この毎日記事への対抗記事であることは明らかである。外報の場合、「何日何処発——」と、クレジットを付すのが常識である。このクレジットが読者にその記事の信ぴょう性を判断させるためのものであることは、新聞のイロハである。

さて、林の社長賞記事は、その後になってから、「ガセ(ニセモノ)だ」「写真は、中部ジャワの新聞に出たものを学生から買い取った」と、中傷の風説が流れはじめた。抜かれた社のイヤガラセだともいえるが、この〝中傷〟は当然である。写真についても、転載なら転載と書くべきだし、自供書も、ただ「本社は入手した」では困る。これは、三流週刊誌のデッチあげの手口と同じだからだ。

大森のウントン自供書は、彼の退社後に、公判廷でウントンが否認したと、「シンガポールで

きいたジャカルタ放送=UPI」の外電が伝えた。しかし、アイジットは死んでいるので、自供書は否定されなかった。死人に口なし、書けば書き得、であった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.328-329 秦の主観と他社記者の客観のズレ

正力松太郎の死の後にくるもの p.328-329 このようにまとめた原稿を、私が雑誌に掲載したのに対し、当の秦正流朝日大阪編集局長から、長文の手紙をうけとった。私の叙述に、誤解があるというのである。読者の判断に資するため、その手紙を併載しよう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.328-329 このようにまとめた原稿を、私が雑誌に掲載したのに対し、当の秦正流朝日大阪編集局長から、長文の手紙をうけとった。私の叙述に、誤解があるというのである。読者の判断に資するため、その手紙を併載しよう。

大森のウントン自供書は、彼の退社後に、公判廷でウントンが否認したと、「シンガポールで

きいたジャカルタ放送=UPI」の外電が伝えた。しかし、アイジットは死んでいるので、自供書は否定されなかった。死人に口なし、書けば書き得、であった。

ある外国特派員の家庭を訪れた人が、妙な表が壁にはってあるのを、その〝朝日記者夫人〟にたずねた。夫人はニッコリ笑って、原稿の送稿本数と掲載本数の表で〝打率〟何割何分と計算までしていたそうである。あまりのお話なので、この特派員の名前は伏せるが、これでは〝外報の朝日〟が、森恭三の退役で幕を閉じたというのもムベなるかなであろう。デビ夫人が権勢を振うジャカルタ、キム・ジョンビル議長下のソウル——発展途上国で、しかも、日本の賠償金が流れこむ街。そこで、権力者と商社とを結んでくれる格好の人物は、新聞特派員である。

しかも彼は、その社から単身赴任しているのだ。管理者の眼の届かない、自由の天地でもある。もちろん、現地には、日本の役人もいよう。だが、外務省の役人たちも、やがて日本に帰るのである。その時、大新聞をあえて、自分の〝敵〟とするよりも、すべてにみてみぬフリをするのが、当然であろう。

特派員夫人の〝打率〟計算は、果して、読者のための、記者としての報道態度だろうか?  自分のための出世第一主義で、社の幹部ばかりに顔を向けて、肝心の国際情勢に背をみせていないだろうか。

「朝毎アカ証言」で、反米的といわれ、ベトナム政策を批判するといわれ、さらに、紙面全体

が、左翼偏向していると、一部から攻撃されている、朝日新聞の外報部をめぐる、幾つかのエピソードを紹介してみた。何よりも、朝日の紙面をつくる人たちの、精神構造と社会構造とを、よく検討して頂きたい。この状態で、何百人ものコミュニストが棲めるのだろうか。送稿本数と掲載本数との〝打率表〟まで作って、特派員の亭主を叱咤する記者夫人の姿は、果して、コミュニストの家庭であろうか。

このようにまとめた原稿を、私が雑誌に掲載したのに対し、当の秦正流朝日大阪編集局長から、長文の手紙をうけとった。私の叙述に、誤解があるというのである。読者の判断に資するため、その手紙を併載しよう。前述したように、十名ばかりの外報記者の中でのできごとで、私としては、ソースとなった某社記者の判断にもとづいた表現なのだが、秦の主観と他社記者の客観との間に、ニュアンスのズレは認められる。

「(前略)一、ポール・マッカーサー事件について秦正流が突如として口を切った。『どうだい、みんな、こんな問題はなかったことにしようじゃないか』つまり、こんなニュースが入電したことをモミ消そうという意味の提案をしたようだ。(中略)真相は、全く違います。それを簡単に話しましょう。私は余りにも日本の新聞と新聞記者が情ないから、いつの日か私なりに当時のことを書くつもりでいましたから、鮮明に記憶しています。

正力松太郎の死の後にくるもの p.330-331 私はむしろケイベツ的な気持をもった

正力松太郎の死の後にくるもの p.330-331 〝モミ消し〟などとはおよそ次元も心境も違う。それを、あなたに話した人のように聞く人がいたとすれば、それはその人の、この問題にたいする考え方が、私と根本的に違っていた からでしょう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.330-331 〝モミ消し〟などとはおよそ次元も心境も違う。それを、あなたに話した人のように聞く人がいたとすれば、それはその人の、この問題にたいする考え方が、私と根本的に違っていた からでしょう。

その日は日曜だった。ボクは自宅にいた。午後三時ごろ電話があった。毎日の大森君だった。カクカクのことで、各社外報部長が米大使館に集るから五時までに来てほしいという。だから私はみんなより一番遅れて出かけていった。途中本社によったら『共同からの連絡もあり、各社いちおう夕刊で抑えてある(当時は夕刊があった)』とのデスクの報告。

バカな余計なことを、と私は思った。なぜそんなに騒ぐんだ。なにをそんなに恐れるんだ。アメリカの議会で国務省の次官や次官補が苦しまぎれにでたらめいったことが、どうして日本でそれほど権威をもつんだ。馬鹿々々しい、というのが私の当時のにがにがしい卒直な感想だった。米大使館へ行ったら、みんながサモ一大事であるかの如く集っている。外報部長たちがである。どんな扱いで報道するか、どう抗議するかとか(朝日、毎日に同情するかの如き、あるいは逆の感情をも含めて)の議論があった。だから私は『笑止千万のことだ。せいいっぱいベタ記事であり、無視してしまったってよいくらいのもんだ』というような発言をしたはずである。

〝モミ消し〟などとはおよそ次元も心境も違う。それを、あなたに話した人のように聞く人がいたとすれば、それはその人の、この問題にたいする考え方が、私と根本的に違っていた からでしょう。まさに私が逆の見解をとっていたからです。だから、毎日の幹部が急拠会合し、大々的な反論を試みることになっているという大森君の話にも、私はむしろケイベツ的な気持をもっただけで、朝日は別の扱いでいこうと考えました。

朝日の扱いは、あれでも私は少し大きすぎたのではないかと思っています。朝日は、『米国の議会でもベトナム戦争についての日本の世論がよくないことが問題になり、国務省の情報が甘すぎるということで、責任追及された役人たちが一知半解の知識をもちだしていいのがれをはかった。その際、こんな無責任な発言をやった』という解釈です。

だから扱いとしては『ベトナムに関する日本の世論が米国で政治問題化している』ことをニュースとする。次にその際、無責任にもせよ、わが国の新聞、とくに朝日、毎日について信用を落とさせるような発言があったことを、その反論とともに載せる。(どこかの国のだれかが、デタラメな中傷を加えるごとに、それをニュースとし、反論しなければならないかどうか。そういうと『かりにもアメリカの議会だぜ』『アメリカ国務省の次官であり、次官補であるんだよ』などいう人が周辺に余りにも多いんで、私は情なく思っているものの一人です)

二、大森君と私がベトナムから出てくると『アメリカは二人をワシントンに招待した。ラスク国務長官に会わせるから、というのである』『大森はアメリカの招待を断ったが、秦はよろこんで出かけ』

これは誰から聞かれたか明らかでないので、あなた自身の断定と思われますが、全く事実に反しています。大森君が招待されたかどうか、また招待を断ったかどうかを私は知りませんから(私は逆のように聞いていますが)私に関する限り誤りだと訂正しておきます。

正力松太郎の死の後にくるもの p.332-333 『無視する』『なかったことにする』

正力松太郎の死の後にくるもの p.332-333 『なかったことにする』という文句があることです。『無視する』というのは評価、取捨選択の問題ですが、あるものを『なかったことにする』というのは、およそ事実に立脚することを信条としている新聞記者の基本姿勢にふれる問題だからです。
正力松太郎の死の後にくるもの p.332-333 『なかったことにする』という文句があることです。『無視する』というのは評価、取捨選択の問題ですが、あるものを『なかったことにする』というのは、およそ事実に立脚することを信条としている新聞記者の基本姿勢にふれる問題だからです。

私はいちどもアメリカから招待されたことはありません。あの訪米は、一九六五年七月から、私が開始した一連の企画(南北ベトナム、インドネシア、北京、ソ連、英、仏、カイロ、ユーゴ訪問)のなかに含まれていて、早くからアメリカに接衝していたものです。アメリカは私が出発する直前にも、会見を保証してくれなかったし、ワシントンに到着しても、国務長官との会見を保証してはくれなかった。私は何日でも待つつもりで、ワシントンに頑張って、結果としてラスクやハンフリーに会えたのです。だから〝よろこんで〟出かけるなどということはあり得ないことでしょう。

ただ、当時、日本の世論を非常に気づかっていたアメリカが、日本の代表的な新聞の一つに異例の会見という形をとって、アメリカの公式見解を詳しく報道してもらいたいと思っていただろうと思います。私たち新聞人は、ソ連の首脳であれ、ハノイの指導者であれ、われわれの関心と かれらの関心との一致するところをねらって、インタービューを申入れるのが常識です。その常識にしたがったまでです、残念ながら北京もモスクワも、カイロもパリ、ロンドンも会見を許してくれませんでした。それだけのことです。

以上、直接私に関係する部分の誤りです。私に問い合せていただきさえすれば、間違わなかったのにと、残念に思います。とくに残念なのは、最初の方の引用形の文のなかに『なかったことにする』という文句があることです。『無視する』というのは評価、取捨選択の問題ですが、あ

るものを『なかったことにする』というのは、およそ事実に立脚することを信条としている新聞記者の基本姿勢にふれる問題だからです。『モミ消す』ということばと同様、全くやり切れない思いです。(中略)

長々と書きました。御無礼なことばもあったかと思います。だが、私の真意は、あなたが現代新聞論を志しておられる。一人でやられるには余りにも大仕事だから、なかには誤った情報による判断なり、記述も避けられないかと思います。それを指摘して、できるだけ、あなたの労作を正確なものにしてもらうことは、読者であり、同時に同僚でもある私たちのつとめだと思ったものですから、あえて一文した次第です。朝日新聞の同僚たちは、あなたの取材を拒否しないはずですから、どうぞ、できる限り直接取材して下さい」(後略)

「外報の〝朝・毎〟」は、このような経過で、すでに両社とも、それを看板にはできない状態になってしまったようだし、私は〝朝毎はアカの巣窟〟という、アメリカ流の見解の皮相さを、十分に解説し得たと思う。

とにもかくにも、上田常隆は、毎日社長であると同時に、日本新聞協会長として、「販売制度の改革」に取り組んでいた。その情熱を、私にももらしていたほどであったが、ついに志をのべないまま、現役を退いて、毎日顧問となった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.334-335 「真実の報道」がすでに空念仏となり

正力松太郎の死の後にくるもの p.334-335 「真実の報道」と「不義不正への挑戦」という、紙面の大黒柱が形骸だけをとどめていて、実は何もなくなっているという現実 7章トビラ 7 ポスト・ショーリキ
正力松太郎の死の後にくるもの p.334-335 「真実の報道」と「不義不正への挑戦」という、紙面の大黒柱が形骸だけをとどめていて、実は何もなくなっているという現実 7章トビラ 7 ポスト・ショーリキ

あの毎日の〝惨〟たる数字をみる時、上田ならずとも、販売制度の改革を考えざるを得まい。

これらの事実を見る時、「真実の報道」がすでに空念仏となり、「新聞」とは巨大なるマスコミ産業に変質していったことが、納得されるであろう。

今までの「新聞論」の多くのものが、新聞を襲った、大きな地すべり——「真実の報道」と「不義不正への挑戦」という、紙面の大黒柱が形骸だけをとどめていて、実は何もなくなっているという現実に眼をおおって、過去の「新聞」とは全く異質のものと認めようとしなかったきらいがある。

正力松太郎の死の後にくるもの

7 ポスト・ショーリキ