正力松太郎の死の後にくるもの p.360-361 送り手の主導者は販売・広告担当者

正力松太郎の死の後にくるもの p.360-361 「新聞は真実を伝えるもの」という設定そのものが、もはや、今日の〝新聞〟においては、間違っている。「編集権」が「経営権」に隷属し、「編集権」もまた、マスコミ産業にあっては、すでに〝死語〟となっている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.360-361 「新聞は真実を伝えるもの」という設定そのものが、もはや、今日の〝新聞〟においては、間違っている。「編集権」が「経営権」に隷属し、「編集権」もまた、マスコミ産業にあっては、すでに〝死語〟となっている。

さきごろ、某小日刊紙の座談会で、「新聞の内幕」というテーマが与えられた。「新聞は真実を伝えるか」にはじまり、「編集権と編集局長の権限」、「七〇年安保の論調予想」など、今日の新

聞の問題点について、〝新聞の現場の人〟三人が集まって、語りあったのである。

新聞は果して真実を伝えているか——大きなテーマでありすぎるのだが、ここで、私は反論を出した。「新聞は真実を伝えるもの」という設定そのものが、もはや、今日の〝新聞〟においては、間違っている、ということである。

マス・コミュニケーションという、和訳しにくいカタカナが、日本に入ってきてからというものは、新聞が変質してしまったことはすでに述べた。「大衆伝達」とでもしか、訳しようがないのであるが、このバタ臭い日本語の語感からしても、「真実の伝達」とは、ほど遠い感じがする。そして、事実、必ずしも「新聞」は「真実の伝達」を行なっていないのである。

そもそも、「編集権」というのは、「真実の伝達」に伴う、妨害や圧迫に対して、その意志の貫徹のために、「経営権」に対置されたものである。しかし、「真実の伝達」が必ずしも絶対条件ではなくなってきた、〝マスコミとしての新聞〟にとっては、それは床の間の置物と化してきているのである。

新聞経営の健全なあり方として、購読料収入と広告料収入の比率が、六対四であることがのぞましい、といわれるのは、すなわち、「編集権」の独立のための、裏付けなのであって、現在の四対六という比率は、すでに、「編集権」が「経営権」に隷属していることを示している。つまり、「編集権」もまた、マスコミ産業にあっては、すでに〝死語〟となっている。

では、〝マスコミとしての新聞〟とは、一体、何であろうか。

マス(多数)にコミュニケート(伝える)する新聞である。新聞の一枚、一枚が、テレビの受像機と同じ意味でしかなくなり、朝日とか読売、毎日といった題号は、テレビのチャンネルと同じ意味しかない。ただ、電波を媒体とするか、活字を媒体とするかの違いだけである。

電波を媒体にすることによって、時間と空間とがゼロになるのに対し、活字媒体であるということは、新聞の一枚、一枚が印刷されるという工程のためと、その新聞紙が輸送されるために、時間と空間とは、相当程度に圧縮はされ得るが(各家庭、各職場にファクシミリが設置されることは、まだまだ、将来のことである)、決してゼロにはならない、という、本質的な差違であるだけである。

この物理的差違が、電波媒体の速報性とか臨場感に対し、活字媒体の随時性や記録性とかいった、機能的な差違をもたらす。しかし〝マス・コミとしての新聞〟は、これらの差違以外の〝マス・コミュニケーション〟としては、もはや、ラジオやテレビと全く同じものなのである。

すなわち、送り手の主導者は、テレビ受像機に相当する〝新聞紙〟の部数を確保し、拡張する、販売・広告担当者であって、記者と編集者ではない。部数が巨大でなければ、大衆伝達の効果が小さいから、もちろん、広告主もつきにくいし、広告料も高くはとれなくなる。発行部数が巨大化すればするほど、広告収入が増大し、広告は売り手市場になる。