p55上 わが名は「悪徳記者」 人を信じる信念

p55上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の部隊はシベリアに送られたが、その軍隊と捕虜の生活の中から、人を信ずるという信念が私に生れてきた。

私は答えた。『棒に振った? グレン隊と心中した? 飛んでもない! オレは棒に振ったり、心中したなんて思ってみたこともないよ』と。

私は自分の仕事に責任を持ったのである。私とて、大好きな読売新聞を、こんな形で去りたいと願ったことはない。もちろん、胸は張り裂けんばかりに口惜しいし、残念である。

人を信じるという信念

昭和十八年の秋、私は読売新聞に入り、すぐ社会部に配属された。やがて出征、そして終戦。私の部隊は武装解除されてシベリアに送られたが、その軍隊と捕虜の生活の中から、人を信ずるという信念が私に生れてきた。今度の事件で、全く何の関係もないのに、事件の渦中に捲きこんでしまった人、塚原勝太郎氏はこの地獄の中で私の大隊長だった人である。私は彼を信じ、彼もまた私を信じて、普通ならば叛乱でも起きそうな、〝魔のシトウリナヤ炭坑〟の奴れい労働を乗り切ったのである。

細い坑木をつぶしてしまう落盤、たちこめる悪ガス、泥ねいの坑床、肩で押し出す一トン積の炭車、ボタの多い炭層――こんな悪条件の中で、「スターリン・プリカザール」(スターリンの命令だ)と、新五カ年計画による過重なノルマを強制される。もちろん、栄養失調の日本人に、そのノルマが遂行できる訳はなかった。そのたびごとに、塚原さんは大隊長としての責任罰で、土牢にブチ込まれた。寒暖計温度零下五十二度という土地で、一日に黒パン一枚、水一ぱいしか与えられない土牢である。こんな環境から生れた、人間の相互信頼の気持である。