この通告問題は当の外務省にとって頭痛の種だったのである。政府声明だけでは〝通告〟にはならぬ、誰か使者を立てねば……、だが果して会ってくれるかどうか、会ってくれても受取ってくれるかどうか、会わねばどうしよう、受取らねばこうしよう、と頭を悩ましていたのだ
った。
田村儀典課長とルーノフ参事官との会見は和やかな雰囲気で行われ、何の意志表示もなかったが、受取ってくれたことだけで、政府はホッとした形だった。
和やかな雰囲気と、意志表示をしなかったルーノフ参事官。ここにソ連代表部の実態が端的に示されている。ソ連政府は依然として日本を被占領国とみている。そして、向米一辺倒に奔る日本の現実に〝和やかな雰囲気〟という工作が、政治、経済、文化の各分野に〝沈黙〟のまま執拗に続けられている。
さきにものべたように、終戦後からのソ連の対日工作を眺めてみると、そこには全く一貫した政策の流れていることが分る。たとえばラ氏手記に出てくる終戦時の在モスクワ大使館員の買収の件である。ラストヴォロフ氏は「新日本会」を組織した五人の日本人を指摘している。
この五人というのは、ラ事件の容疑者として公務員法第百条違反(秘密を守る義務違反)に問われた、外務事務官庄司、日暮両氏を含んでいる。つまり終戦時からすでに何年もの後への手が打たれていた訳である。新聞記者オグラ氏も同断であるのは、もちろんのことである。
その工作は大体次の三期に分れる。
第一期 昭和二十年八月代表部設置から、同二十六年までの六年間。この間は基礎工作の段
階である。
第二期 昭和二十六年六月三十日代表部スポークスマンと共同通信藤田記者との会見より、同二十七年四月二十八日講和発効まで十カ月。この間は工作具体化の段階である。
第三期 講和発効から三十年一月までの二年九カ月。この間は仕上げの段階である。
このような三つの段階は、もちろん動きの上にはっきりと現れている。つまり施設からみれば、二十六年七月から八月にかけて、丸の内の三菱仲二十一号館の代表部、文化部、図書館、通商部が接収中の郵政省ビルに移り、八月二十三日に残りの宿舍も狸穴に移転、二十一号館を返還した。これが第一期の終了を示しており、さらに講和と同時に郵政省ビルも、十数戸の個人住宅も返還して、一切が狸穴の旧大使館に移った。
なかでも通商部は、二十七年三月二十七日麻布竜土町十一のUSハウス六九二号だったトリコフ大尉居住の家屋、戦前のソ連大使館商務館へ本腰を据えて落着いた。同時に五月一日から自動車のプレートを「SPACJ(対日理事会ソ連代表)—何番」から「USSR—何番」に全部取換えてしまった。これが第三期の始りだ。
第一期の基礎工作中には目立った動きはない。ただ各国共産党をして活溌に展開させた「平和擁護世界協議会」のストックホルム・アッピールによる戦争反対署名運動で、さらにベルリ
ン・アッピールの「五大国間に平和協定を結べ」というスローガンを国民に訴えていた。