『ヘン、今更毛なんぞ剃ったって追っつきゃしねえや。なぜロスは薬をくれねえんだ』
『畜生! どうせ死ぬものなら、一度でいいから腹一杯喰ってから死にてえもんだ』
『おお、そういや、俺はこの前シュタップに使役に行って、旨いことしたぜ。ねずみに喰わせる高梁(コーリャン)運びよ』
『ナニ、ねずみに高梁喰わせるのか?』
自棄的な二人の駄弁に、旨いことをした男への羨望と、ねずみの高粱への哀惜が入り交った視線が集った。勝村も思わず聞耳を立てていた。
『ウン、何でもシュタップにはねずみが沢山飼ってあると、警戒兵の奴がいってたっけ。俺は高染を飯盒一杯くすねて、そのロスと山分けしたンだ。初年兵時代に馬糧の大豆はよく喰ったが、ねずみのピンハネは初めてだよ』
その男はその時の味の思い出をたのしむように、エへへへと笑った。話を聞いていた誰もがツバをのみこんだ。
——シュタップではねずみを飼っている! 何のために?
彼はある重大な示唆を与えられて、思わずハッとなった。その時卒然とした悪感が背筋を走った。顔が赤くなってゆくのが分る。頭がキンキンと痛み、そこへしゃがみこんでしまった。熱発である。チフスだ!
勝村良太はこの混成の収容所の中では、退院の途中終戦となり原隊から離れた歩兵上等兵と
称していたが、実はソ軍側から、お尋ね者のハルビン特務機関員で、歴とした陸軍少佐であった。ソ連の参戦前、おおよその状況の分っていた特機では、機関員の人事、命令などの書類を一切焼却して、それぞれに変装、変名していたのである。
ハルビン時代の彼は捕えたソ連側諜者の処置を甲、乙に分類する仕事もやった。
〝甲処置〟というのは逆用スパイとしての利用価値なしという決定だ。哀れにも甲処置の判を押された男は、自ら掘った墓穴の傍らに目隠しをして座らされる運命だ。
町中にまで銃声が響くのを避けて、銃殺という武士の情はかけてもらえない。棍棒で殴られて頭をザクロのように割られ、足で蹴りこまれて、その男は地球上から消え去ってしまう。
〝乙処置〟というのは保護院という監獄送りである。体力や能力が詳細に観察され、拷問や脅迫ののちに忠誠を誓わされて、逆用スパイとして再びソ連領に投入される。
ある場合には、その男が最初にソ連側で与えられた任務の情報まで準備し、彼がソ連領帰還後の信用まで考慮してやることもあるのだが、逆用スパイとして投入した者のうち、使命を果して帰ってくる者はごくまれだ。
諜者が帰還した場合には、その行動経過を厳重に調べるのが常識だから、日本側の諜者が逆用スパイになって帰ってきても、ほとんどが殺されてしまうように、乙処置で逆用スパイとな
った者も、たどる道は甲処置と同じ運命であろう。