の有無にかかわらず)した者がいたという事実は、全シベリア引揚者が、その思想的立場を超越して、ひとしく認めるところである。だがこの密告者たちは、そのほとんどが、ご褒美と交換の、その場限りの商取引にすぎなかった。これは昭和二十一年末までの現象であった。
二度目の冬があけて、昭和二十二年度に入ると、身体は気候風土にもなれて、犠牲も下り坂となり、また奴れい的労働にもなじんでくるし、収容所の設備、ソ側の取り扱いもともに向上してきた。生活は身心ともにやや安定期に入ったのである。ソ側の混乱しきっていた俘虜政策が着々と整備されてきた。俘虜カードの作成もはじめられた。だが、静かにその変遷を見守っていた私の眼には、やがて腑に落ちかねる現象が現れはじめてきた。
その一つは、ある種の個人に対する特殊な身上調査が行われていること。特殊なというのは、当然その任にある人事係将校が行うものではなく、思想係の政治部将校がやっていることだった。しかも、呼出しには作業係将校の名が用いられ、面接したのは思想係だったというような事実もあった。
その二は、人事係のカミシヤ(検査)と称して、モスクワからきたといわれる将校が、ある種の日本人をよんで、直接、身上並びに思想調査