『大馬鹿野郎! 今に思い知らせてやるゾ!』
そのすさまじい権幕に、さすがの私も脇の下に冷汗をビッショリかいていた。
だが、拳銃や営倉の脅迫もなく、この二回にわたる調査に関して、絶対に他言をしないという誓約を一札入れさせられたのだった。
このままでは済むはずがないと、もんもんの日を送るうち、果たして一カ月後の七月末に転属命令が出て、第二三分所に移り、管内から集められた逃亡未遂者と共に九月二十三日夜貨車に積まれ、厳重な監視のもとに出発した。一月ほどの苦しい旅行ののち、到着したのは中央アジアの地の果てともいうべき砂漠地帯、デスメズガンの国際懲罰収容所だった。
ここには、ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、イタリア、日本、中国、朝鮮、蒙古、白系露人など十四カ国人の、主として逃亡者や反ソ分子が、重労働と栄養失調にあえぎながら働いていたのだった。…私は懲罰の期間もすぎたのか、のちにカラカンダに移り、身体虚弱者としてついに帰国することが叶えられた。
㊁村上富雄氏の場合(談話)
(岩手県気仙郡矢作村、元少尉、ウォロシロフより二十三年四月復員)
二十二年九月十六日、ウォロシロフ五六三労