赤い広場ー霞ヶ関 p.090-091 ソ連のスパイになる

赤い広場ー霞ヶ関 p.090-091 I decided not to inform CIC but to "cooperate" with the Soviet representative.
赤い広場ー霞ヶ関 p.090-091 I decided not to inform CIC but to “cooperate” with the Soviet representative.

しかも、占領米軍のやり口はここ三年近くの間に、はっきり見せつけられてきた。いま結ばれようとしている講和・安保の二条約は、果して善意と寛容のものだろうか。このままで進めば、日本がまた戦争に捲き込まれはしないか。日本全土を基地として、米軍は一体なにを防衛しようというのか。平和な生活―それを除いてなにを守ろうというのか。

民主々義―それは私たち日本人自身がつくり出すものであって、平和なうちにこそ発展できるはずだ。その平和を守るためには、力ばかりで固めるのはあまりにも危険だ。

この際、私の立場としてなしうること―それは日本人が心から平和を願っていることを、卒直にソ連に伝えることだ。もちろん、現実と理想とは一致しがたいし、個人の力には限界がある。しかし如何に相手がソ連といっても、人間の善意と努力がまったく無駄になることはあるまい。

こう考えて、私は引揚げの促進と平和への努力とのために、自分自身を裏切らないことを心にいいきかせながら、CICには知らせずに、ソ連代表部員と「協力」することに決心したのであった。

だがよく考えてみればみるほど、この仕事が危険なことは明らかであった。一方の足と手をアメリカという強引な「鬼蜘蛛」の糸に取られ、さらにいま他方の手と足をソ連という冷酷な「女郎蜘蛛」の尻から吐かれる糸に捲かれようとしているのだ―これが、その時の私の偽りのない不安な感情であった。そして私は、やれるだけやってみよう、しかも他の日本人には一切迷惑をかけないようにして……と覚悟を決めた。

三日後の水曜日の夜九時、私は帝劇裏の飯野産業ビル前の歩道をゆっくり歩いていた。(中略)

私にあたえられた任務―それは日本の政治情報、とくに再軍備に関する情報を蒐集し、自分の意見を付け加えて報告することであった。読終った彼はただ一言、

『無理して急がないように、あなたはまだ若いのだから、お互いに〝警戒心〟をたかめて慎重にやりましよう』(中略)

その後、私はすべての情報原を各種の出版物に求め、これを細密に分析して、大体一ヶ月に一回メモを作ってユーリ(著者註、ラ氏)に渡した。

ユーリは私のメモについては、なに一つ批判をしなかった。そして時々私に臨時の目標を示した。例えば二十年の二月頃には、米将校の名をあげて利用できないかを探知するように(著者註、それは在日米大使館ラデエフスキー参事官、NYKビルのオットー少佐、A―2のラザエフスキー中佐、G―2のミハレフスキー大尉らの独系、露系米人だったといわれる)、またその年の五月「メーデー事件」の直後には、日本共産党の軍事組織を明らかにするように私に依頼したが、私はその都度できないと率直に断った。それでも二十七年の十月頃からは、彼が私を信用しはじめたと私は考えたので、引揚げの促進と平和への願いを、あらゆる報告に関連させて私は書き送っていった。

最初の連絡場所は目黒の碑文谷付近の住宅地であったが、その後銀座pX裏、渋谷東宝劇場、新宿の裏街などを転々と変った。