津村氏は私の質問を黙ってうなずきながら終りまで聞いていた。その表情は刻々と変化して驚きからついには感嘆となった。
『どうして、一体、それだけの話をどこから聞いたのです?』
彼はこういって、私の質問のすべてを肯定した。事実その通りだというのであった。そして最後に、自嘲にも似た『ヒューマニストだったんです』という言葉が洩れたのだ。
『今の話がそのまま新聞にでたら、どういうことになるでしよう?』
『党活動停止の処分が、除名という最後的処分に変るでしよう……』
彼は私に書くな、書かないでくれとはいわずにそう答えた。そういわない彼がいらだたしくて私はおうむ返しにまた訊ねた。
『除名になったら……』
彼は顔をあげた。その眼は力無く妻へ注がれ、彼女の視線を誘って再び下へ落ちていった。
子供である! 父と母とは、道具らしい道具とてないこの貧しそうな部屋で、それでもビックリするほど肥った健康そうな、吾が子の安らかな寝顔をみつめていた。
『……そしたら、喰えなくなるでしようナ』
彼は視線を少しも動かさずに、切実な響きをこめて、また会話の相手が日共の敵、〝反動読売〟の記者であることも忘れたように答えた。
もはやそこには、あの死に連なる恐怖の人民裁判のアジテーター津村の厳しさも、日共党員津村の虚勢もなく、政治や思想をはなれて純粋に人を感動させる、夫と妻と、父と母と子の愛情だけが漂っていた。
私は立上った。ちょうど同じ位の男の子が私にもいたのだった。小さな声で『サヨナラ』とだけいって私は室外へ出た。まだ冷たい三月の星空を仰ぎながら、私はメモを懐中深くしまった。
数日後の委員会で、私は傍聴席の隅っこに津村氏の姿を見かけた。それが最後だった。やはり彼は日共党員として脱落していったらしい。一労働者として地方へ出ていったとも聞いている。そして同じ小田急線でよく顔を合せては、皮肉やら冗談を言い合っていた久留氏も、地下へ潜ったものか絶えて逢わないでいる。
〝ナホトカ天皇〟はアクチヴィストとしての、理論と実行力と指導力と、さらに品位をも兼 ね備えた人物であった。