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迎えにきたジープ p.138-139 石井部隊の戦犯裁判の記録

迎えにきたジープ p.138-139 Kirikov handed a thick book to Otani. “Two thousand of these books were landed at Shibaura from the Grinsky. I'm going to hand over these for the funds of the Japanese Communist Party through the hand of Norma Company."
迎えにきたジープ p.138-139 Kirikov handed a thick book to Otani. “Two thousand of these books were landed at Shibaura from the Grinsky. I’m going to hand over these for the funds of the Japanese Communist Party through the hand of Norma Company.”

『詳細なデータは入手しましたか』

『これです』

大谷は書類綴りを渡した。

『ウクライナ穀倉地帯へ飛行機による攻撃が計画され、準備されています』

それでもキリコフの表情は変らなかった。彼は書類複写のため呼鈴を押した。

ウクライナはソ連第一のドンバス炭田地帯を控えて、ソ連屈指の工業都市が群立し、また豊沃な黒土帯地方が一望千里にひろがっており、ソ連の宝庫とか、ヨーロッパの穀倉とか呼ばれていた。

だが一九四七年夏の大旱魃には、流石の穀倉も全滅にひんした。ウクライナの不作は直ちに全ソ連の食糧危機を意味する。各地には食糧騒動が起り、レニングラードなどでは暴動となった。同市の食糧販売所の前で、数時間も行列して待っていた市民と保安隊とが衝突まで起したのだ。

ソ連には「八時間(ウオセミ・チャソフ)労働(ラボート)、八時間睡眠(スパーチ)、八時間買物行列(オーチエレヂ)」という言葉があるほど、行列には馴れ切ったソ連人が、エヌ・カーと呼ばれて恐れられている、国内警備隊と衝突したのだから、余程深刻なものだったに違いない。群衆は食糧販売所に放火して乱入、食糧を奪ったのち、軍用品を焼きすてるという騒ぎだった。

また正確には発表されなかったが、数千万の餓死者も出したという。さらにその結果として、

ウクライナ人によるスターリン政府への反乱まで起ったということが、当時アンカラ放送やAP電で伝えられた。

ウクライナ穀倉地帯への細菌攻撃の結果は、想像するだけでも恐ろしい。黙然としていたキリコフは、気分転換のためか、ツト立って一冊の分厚い本を大谷に手渡した。

『この本が二千冊、グリンスキー号で芝浦に陸揚げされた。ノルマ社の手を通じて日共党員の資金カンパ用に渡すつもりだ。その宣伝効果を判定し給え』

大谷が手にとってみると「細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍人ノ事件ニ関スル公判書類」という長ったらしい標題の七百三十八頁もの大冊だった。上等な紙に鮮明な日本活字で刷られ、「外国語図書出版所、モスクワ・一九五〇年」とある。

内容は緒言からはじまり、一、予審書類、起訴状、被告及び証人の供述、証拠書類、二、法廷における被告及び証人の供述、三、鑑定、四、国家検事の論告、五、弁護人の弁論、六、被告の最後の陳述、七、軍事裁判の判決状、といかめしい文字ばかりが並んでいた。

ハルビン石井部隊の戦犯裁判の公判記録だ。大谷はパラパラとめくりながら、若干イヤな顔をした。ハルビン第二陸軍病院長として自分も関係していたことがあったからだ。証拠書類の項には当時の軍命令や各級部隊命令など、軍事極秘の書類の写真版が多数納められていた。

『ノル社長の小竹博助の友人で奥津久次郎というのが、三巴商事という貿易商社を丸ビルで開いている。今度はさらに二千冊のソ連図書が、正式にポンド決済で輸入されるから期待してい給え』

迎えにきたジープ p.178-179 鹿地亘の複雑すぎる過去

迎えにきたジープ p.178-179 Kaji has a very complex past history. He is a poet, a critic, an actor, a street speaker and a painter. His political activities changed rapidly. He was a member of the Japanese Communist Party, a propaganda agent of the KMT, and a spy on the Communist Party of China. During the war, he was engaged in work of the US secret agency.
迎えにきたジープ p.178-179 Kaji has a very complex past history. He is a poet, a critic, an actor, a street speaker and a painter. His political activities changed rapidly. He was a member of the Japanese Communist Party, a propaganda agent of the KMT, and a spy on the Communist Party of China. During the war, he was engaged in work of the US secret agency.

6 釈放の時、鹿地自身が外苑で自動車からおろして貰ったのではないか、普通なら自宅まで自動車でおくるのがアメリカ人の習慣になっている。

7 出たままの姿で帰るのはおかしい、一年間に別の着物ができているはずだ。

8 自宅にはアメリカから送金があったのではないか、池田や看護婦や子供の一年間の生活は仲々むずかしい。

9 監禁等は芝居で何か別のこと、日共ヘの入党、来年の参議院選挙をあてこんでいるのではないだろうか。

10 鹿地も池田も苦しい生活に堪えることのできない人だ。

二 新版〝ハダカの王樣〟

これらのナゾに応えるものは、複雑極まりない彼の過去の経歴である。

鹿地氏は詩人であり、批評家であり、俳優でもあり、街頭演説もやれば、繊細な水彩画も画く。本質的には弱々しい神経質な人間だけあって、彼の政治活動は目まぐるしく変転した。

日共党員であったこともあるし、国民党の宣伝工作員になったこともあり、延安当時には中共のスパイにもなった。戦時中には中国にあった米国秘密機関の謀略、宣伝工作に従事したかと思うと、一方、米国の秘密を探っていたという疑いをいだく向きもあり、また戦後の東京で

は貿易商社の重役にもなったが、その会社は中日貿易を目的としながら、殆んど商売らしい商売もしていなかったといわれている。

彼は大正末期に「新人会」を経て国際共産党の仕事に携ったといわれている。当時の彼の主な任務は、学生層や文化人グループ内に、共産主義思想の浸透をはかることにあった、とみられている。

昭和七年ごろ、彼はその文化人としての立場をすてて、当時死滅にひんしていた日本共産党を救うために活躍、同九年には日共の他の幹部たちと一緒に逮捕された。そこで彼は日共から離れて大陸へ渡り、左翼作家として反日運動を指導することになった。

上海時代の鹿地氏は、同地で書店を経営していた内山完造氏を通じて、国民政府に喰い入った。そのころの彼は、蒋介石などの要人から公然と命令を受けるという地位にあったが、同時に当時国府に入っていた中共の代表者周恩来からも、秘密裡に指令を受けていたという噂があった。

そんなことも影響したのか、国府は彼を警戒しはじめ、彼が日本人捕虜を集めて作っていた「鹿地調査室」や、その表看板であった「民主日本建設同盟」を廃止してしまった。

鹿地氏は早速米国機関に接近してそこで働らいていたが、やがて戦時中の米国諜報機関とし

て極秘の存在であったOSS(海外秘密情報戦略本部)に近づいた。ここで働らいていたときに、彼は日本人捕虜を利用する詳細な計画を立てた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 津村は「徳田要請」は事実と主張

赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 The Nakhodka Group was purged by the Nihon Shimbun Group.
赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 The Nakhodka Group was purged by the Nihon Shimbun Group.

ソ帰同は二十三年に〝ナホトカ天皇〟こと津村謙二氏らのナホトカ・グループが帰国すると同時に、組織されたもので、その名の通りソ連帰還者の生活擁護を目的としていた。ところが、二十四年十月二十八日に第二回全国大会が開かれ、中共引揚を考えて帰還者戦線の統一が叫ば

れ、「日本帰還者生活擁護同盟」(日帰同)と改称され、日共市民対策部の下部機関で、指導は同部の久留義蔵氏が当っていた。

ところが、これもあくまで一貫した政策からみれば〝前座〟であって、シベリヤ民主運動の経過を見守ってきた日本新聞グループという〝真打〟が、二十四年十一月に帰国するに及んでナホトカ・グループは御用済みになったわけである。

第二回大会で日帰同の組織改正が行われた。つまり最高機関は全国大会で、中央委員会三十名、中執委と常任委各十名によって平常活動が行われ、事務局は組織、文化、財政の三つに分れたのである。そして文化工作隊として、十六地区楽団と沿海州楽劇団を合流させて楽団カチュシャとし、高山秀夫氏をその責任者とした。これは津村一派でしめていた委員長、書記長制の改廃である。

そして二十五年一月には役員の改選が行われ、津村委員長は、①楽団カチュシャの資金は地方の帰還者中の情報担当者に渡すべきなのに本部人件費として十三万円を流用した。②下部組織に対し発展性なし。③逆スパイを党内に放っている。④婦人問題(註、須藤さんの件)を起した、などの理由からついに粛清されるにいたった。津村氏は三月になって委員長の地位から筋書き通りに追われたのであった。

ソ帰同改め日帰同がこのような経過で改組されていったことは承知していたのだが、私はその日この問題に関する、次のような情報を得ていたのであった。

津村追放の表面上の理由は、前にのべたような四点であったが、事実上の理由は、①徳田要請問題に関して否定資料を集めなかったばかりか、肯定資料はあるけど否定資料はない旨の発言を数回にわたって行った。②現在の党批判をソ連代表部員ロザノフ氏(註、二十九年のスケート団監督、ラ氏の帰国命令の監視者)を通じてソ連側へ呈出していたがそれが妥当を欠いていた。③日共幹部袴田里見氏を数々の偏向ありと指摘し、また同氏弟睦夫氏をボスとして批判した、という三点にあった。

そして、そのため袴田氏の命をうけた久留氏が、津村氏らのナホトカ・グループ六名(佐藤五郎、生某、大棚某、陣野敏郎、大石孝氏ら)を三月九日から十三日までの間、産別会館に軟禁して徹底的に吊し上げを行い、ついに党活動停止の処分に付した。

そのかげには日本新間グループの矢浪久雄、高山秀夫、小沢常次郎、山口晢男氏らが、ロザノフ氏と連絡をとっていたというような内容の情報であった。

私はこの情報を受取って驚いた。〝上陸党員〟中では大幹部ともいうべき津村氏が、徳田要請は事実なり、という資料しかないと主張して、五日間にわたる吊し上げののち、党活動停止 の処分を喰ったというのであるから、委員会の徳田証人喚問が大荒れで結論の出しようもないときては、それこそビッグ・ニュースである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.122-123 除名になったら…?

赤い広場ー霞ヶ関 p.122-123 There was neither the rigor of Agitator Tsumura in the fearful people's court that led to that death, nor the bluff of the JCP member Tsumura.
赤い広場ー霞ヶ関 p.122-123 There was neither the rigor of Agitator Tsumura in the fearful people’s court that led to that death, nor the bluff of the JCP member Tsumura.

津村氏は私の質問を黙ってうなずきながら終りまで聞いていた。その表情は刻々と変化して驚きからついには感嘆となった。

『どうして、一体、それだけの話をどこから聞いたのです?』

彼はこういって、私の質問のすべてを肯定した。事実その通りだというのであった。そして最後に、自嘲にも似た『ヒューマニストだったんです』という言葉が洩れたのだ。

『今の話がそのまま新聞にでたら、どういうことになるでしよう?』

『党活動停止の処分が、除名という最後的処分に変るでしよう……』

彼は私に書くな、書かないでくれとはいわずにそう答えた。そういわない彼がいらだたしくて私はおうむ返しにまた訊ねた。

『除名になったら……』

彼は顔をあげた。その眼は力無く妻へ注がれ、彼女の視線を誘って再び下へ落ちていった。

子供である! 父と母とは、道具らしい道具とてないこの貧しそうな部屋で、それでもビックリするほど肥った健康そうな、吾が子の安らかな寝顔をみつめていた。

『……そしたら、喰えなくなるでしようナ』

彼は視線を少しも動かさずに、切実な響きをこめて、また会話の相手が日共の敵、〝反動読売〟の記者であることも忘れたように答えた。

もはやそこには、あの死に連なる恐怖の人民裁判のアジテーター津村の厳しさも、日共党員津村の虚勢もなく、政治や思想をはなれて純粋に人を感動させる、夫と妻と、父と母と子の愛情だけが漂っていた。

私は立上った。ちょうど同じ位の男の子が私にもいたのだった。小さな声で『サヨナラ』とだけいって私は室外へ出た。まだ冷たい三月の星空を仰ぎながら、私はメモを懐中深くしまった。

数日後の委員会で、私は傍聴席の隅っこに津村氏の姿を見かけた。それが最後だった。やはり彼は日共党員として脱落していったらしい。一労働者として地方へ出ていったとも聞いている。そして同じ小田急線でよく顔を合せては、皮肉やら冗談を言い合っていた久留氏も、地下へ潜ったものか絶えて逢わないでいる。

〝ナホトカ天皇〟はアクチヴィストとしての、理論と実行力と指導力と、さらに品位をも兼 ね備えた人物であった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.162-163 「日ソ親善協会」の正体とは

赤い広場ー霞ヶ関 p.162-163 The Japan-Soviet Trade Promotion Association was established as an external organization of the Japan-Soviet Friendship Association. And there was a Siberian-Organizer Minoru Tanabe.
赤い広場ー霞ヶ関 p.162-163 The Japan-Soviet Trade Promotion Association was established as an external organization of the Japan-Soviet Friendship Association. And there was a Siberian-Organizer Minoru Tanabe.

こうした判断に立って政府筋では、日ソ関係があいまいのうち旅券問題を処理することは正常な日ソ関係をもたらす道ではなく、前述のような態度こそソ連の日本分解政策を阻止するとともに、シベリヤ同胞の帰還を促進する最短路であるとしているようである。

この第四項が、私の分類によると二十六年六月三十日から二十七年四月二十八日までの第二期工作具体化の段階である。と同時に第五項の工作基地としての、ソ連代表部確保の努力と退去への準備とが併行して行われた。

確保への努力とは実績的に居坐ることであり、退去への準備とは高毛礼氏らの〝地下代表部員〟への任務の移譲であった。実績的に居坐るということは直接日本国民へ好意を示し、特に政財界の有力者に働らきかけて政府を牽制しようということである。

そうして講和発効以後の第三期仕上げの段階に入っていった。この時から三十年一月二十五日、鳩山・ドムニッキー会談までの間に「日ソ交渉」という収獲への手が、抜かりなく打たれていった。

その一つの手が高良工作である。政府が旅券を発給せず、しかもソ連へ入国したものを旅券法違反で罰しようとしても、ともかく日ソの往来を事実として実績に加えてゆこうというのである。そしてこれは成功した。前記第六、第七項のウラをかかれたわけである。そのかげにあ

るシベリヤ・オルグ村上道太郎氏の功績を見逃すことはできない。

その第二の手は日ソ親善協会の組織の整備と強化である。まず二十七年夏に協会内の貿易対策部が独立して日ソ貿易促進会という、日ソ親善協会の外郭団体として発足した。これは通商代表部と商社とを斡旋する機関で商談はやらない。すなわち日ソ貿易の組織(オルグ)機関である。

そして、私はここにもシベリヤ・オルグの一人、田辺稔氏を見出すのである。同氏はマルシャンスクからハバロフスクを経て、二十三年六月栄豊丸で引揚げてきた元陸軍中尉である。在ソ間は主としてマルシャンスクにおり、内務労働部長などをつとめてきた。

組織の整備と強化は着々として行われた。千駄ヶ谷は原宿署を間にはさんで、日共本部と反対の地にある「日ソ親善協会」は、協会を中心に「ソ連研究者協会」「日ソ図書館」「日ソ学術文献交流センター」「日ソ学院」「日ソ通信社」「ソ連帰還者友の会」などといった、外郭もしくは内部機関が目白押しに並んでいるほどである。

この間、日本政府から否認されて、いわばママ子扱いをされている代表部は、退去するが如く、退去せざるが如くみせかけながら、遂次人員を縮少していった。その経過は前述の通りである。人員の縮減ということは、日本人で代行できる仕事はこれを移譲するということだ。文化活動はすべてが日ソ親善協会系各機関の担当となった。