新宿慕情 p.068-069 嫣然と会釈され胸がときめいたりする

新宿慕情 p.068-069 隣の五〇三号には、丸山明宏が住んでいた。「黒蜥蜴」がヒットしていたころだった。香料の芳香が立ちこめ美貌が妖しい魅力を呼んで、息苦しいほどだった。
新宿慕情 p.068-069 隣の五〇三号には、丸山明宏が住んでいた。「黒蜥蜴」がヒットしていたころだった。香料の芳香が立ちこめ美貌が妖しい魅力を呼んで、息苦しいほどだった。

しゃぶしゃぶの店

かに谷の隣にある牛やは、知る人ぞ知る、の有名店。しゃぶしゃぶならば、全東京で、この店がトップであろう。私の友人知己の、美食家たちを何人か案内したが、だれもが、「美味い」とホメそやす。

こういわれると、内心、「ああ、オゴリ甲斐があったナ」と胸を撫でおろす。

まったくのところ、東では牛や、西では、京都の祇園すゑひろ。ともに、しゃぶしゃぶではトップである。テレビで宣伝している千駄ヶ谷の十千万などはしゃぶしゃぶ界では駈け出し。

恥ずかしながら、私が、しゃぶしゃぶを知ったのは、昭和三十四年ごろ、大阪で、芦田均氏の息子サンに連れられて、すえひろでのことだった。

「肉をナベにいれて、しゃぶ、しゃぶと、ウラオモテを湯掻いたぐらいが最上の味。煮てはいけませんよ。しゃぶ、しゃぶと、こうネ……」

その時、こんな旨いものがあるのを、どうして知らなかったのか、と、それまでの四十年ほどの人生が、悔まれてならなかった、ほどだ。

やがて、東京は、溜池の自転車会館地下のざくろで、しゃぶしゃぶに再会する。どうやら、〈西力東漸〉といったところらしい。

そして、私はいう。「こうして、ウラオモテ、しゃぶ、しゃぶ、と、泳がせる程度ネ。煮たら

ダメですよ。どうです?」

当時は、東京では、ざくろしかやっていなかったようだ。

その後、正論新聞を始めて、現在の大木ビルに事務所を構えた時、近所に牛やがあるのを知ったのだが、入ったことがなかった。

というのは、その牛やとの間で、ケンカをしてしまうのだ。

大木ビルというのは、マンションビルだ。私が入った時は、五階の端の五〇四号室。そして隣の五〇三号には、このビルの最後の住人であった、丸山明宏が住んでいた。

「黒蜥蜴」がヒットしていたころだった、と思う。やや胴長のスタイルだが、化粧は、ふだんでも欠かさず、確かに〝美し〟かった。エレベーターで乗り合わせると、ニッコリ笑って、挨拶を先にする。香料の芳香が立ちこめ美貌が妖しい魅力を呼んで、息苦しいほどだった。

徹夜で原稿を書いていると、深夜の二時、三時に、かすかに隣室から歌の稽古をする声が響いてくる。

廊下を歩いていて、ドアが細目にあいている時など、見るともなしにノゾくと、濃緑色に統一された室内に、ルイ王朝風の家具が眼に入って、嫣然と会釈され、胸がときめいたりする。

花束を抱えた女高生のファンが、ビルの入り口あたりをうろつき、いまの殺風景などとは比ぶべくもない。