新宿慕情 p.088-089 特務曹長格の私が知らない男が遊軍席にいる

新宿慕情 p.088-089 私が、三年に及ぶ警視庁記者を〝卒業〟させてもらって、通産、農林両省クラブ詰めになったのは、昭和三十年初夏のことだった。~だが、丸一年で、大特オチをして、部長の眼の届く遊軍勤務になってしまう。
新宿慕情 p.088-089 私が、三年に及ぶ警視庁記者を〝卒業〟させてもらって、通産、農林両省クラブ詰めになったのは、昭和三十年初夏のことだった。~だが、丸一年で、大特オチをして、部長の眼の届く遊軍勤務になってしまう。

Aとお茶を飲みに出かけ、三、四十分ほどでもどってくると、Bと出会って、またコーヒー店に行く。要するに、自分の会社なのに自分の席がない。もしも原稿を書こうとするなら、用事もなく、机と椅子を占領している男がいれば、先輩なら、「スミマセン。ちょっと……」と、明け渡しを要求し、後輩だったら「オイ。場所を貸せよ」と、追い立てを食わせる。
八十人も部員がいて、座席が二十ほどだから、ヒョイとトイレに立っても、だれか坐られてしまう。

その人がひろげて読んでいる新聞の下から、手を突っこんで書きかけの原稿と資料を拾い集めて、席を求めてキョロキョロする始末だ。

その会社の、レッキとした社員なのに、自分の席がない……などとは、一般の人たちには、想像もつかないことだろう。それは、出先の記者クラブでも同じで、一社に一卓しかないから、いつも、行雲流水の境地だ。

となると、仕事の打ち合わせも、憩いのくつろぎも、すべて喫茶店ということになる。

だから、自分にだれかが用事があると思えば、居場所を明らかにし、喫茶店の電話番号をメモした帳面を、ポケットにいつも入れておかねばならぬ。

もう四年生になって、田中派の中堅である小宮山重四郎代議士の略歴を、国会便覧で見るとおもしろい。当選二回目までは「日大講師・読売新聞記者・東洋大理事」と出ている。

四十五年二月版の、当選三回になると、「日大講師」の次に「東洋大理事」がきて、「読売記者」が脱けてしまっている。

どうして、日大講師なのか、東洋大理事なのか、学究でもなく、専門家でもないのに……と、余計なセンサクは、措くこととしよう——。

私が、三年に及ぶ警視庁記者を〝卒業〟させてもらって、通産、農林両省クラブ詰めになったのは、昭和三十年初夏のことだった。「虎を野に放つような予感がしないでもないが、マ、経済官庁を持って勉強しろ」と社会部長にいわれた。

だが、丸一年で、大特オチをして、部長の眼の届く遊軍勤務になってしまう。もっとも、この特オチは、農林省の多久島ツマミ食い事件で、発表モノだったから、地方部の記者が提稿したのに、社会部のデスクが、カン違いして、読売だけが〈発表モノ特オチ〉という、前代未聞のミスをしたのだった。

毎日、社へ出勤してみると、その二十個ばかりのデスクのスミに、ひとりの若い男が、毎日きて坐っている。三十一年初夏のころだった。

その年の四月の新入生は、まだ地方勤務中で、本社に上がってきているのはいないハズだ。

社会部員にしては、なんとなく遠慮勝ちで、そのくせ、「オーイ、子供ッ!」と、給仕を呼ぶと、給仕クンがいない時などハイと答えて立ってくる。

日中は、夜間の高校生や大学生、夜は、ひる間の学生たちが給仕として、各部に配属されていたのだが、その男を見ると、どうも、学生にしては、年を食いすぎている。

当時の私で、社歴十三年。特オチで社へ上がらされて、遊軍席にはいるが、八、九年生ぐらいの〝軍曹〟が遊軍長で、私は別格。日勤、夜勤、泊まりなど勤務は除外されている。いうなれば軍曹の上にいる〝特務曹長〟格なのだ。

その私が、〝知らない男〟が遊軍席にいる。不審に思って、数日後にきいてみた。

「オイ、お前。毎日、社会部にいるけれど、一体、どこの人間なんだ?」

「ハイ。ザ・ヨミウリ(読売発行の英文紙)の記者で、小宮山といいます」