私は日露会話の本で、輸送間に警戒のソ連兵にロシア語を習った。沿線の風景をはじめ、見聞するすべてを頭の中へメモした。
ロシア語はたちまち上達して、取材は八方へとひろげられた。作業へ出ると、警戒兵を買収して、一緒に炭坑長や現場監督の家へも遊びに行った。労働者の家庭生活をみるためである。身分は、たとえ軍事俘虜であろうとも、私は読売特派員だ。腹にまいた正力松太郎の署名入り日の丸と社旗とは、あの地獄のような生活の中でも、新聞記者として私を元気づけてくれたのだった。
「またペンが握れる」
こうして丸二年、私は不屈の記者魂を土産に持って、再び社に帰ってきた。第二次争議が終ったばかりの読売には、同期十名のうち半分はいなくなっていた。つまり兵隊に行かなかった連中は、すべて、第一次、第二次の争議で、激動期の読売から去っていってしまっていた。迎えてくれたのは東京社会部の労働班長金口進一人だけだった。
去っていったのは、北海道の国鉄職場離脱闘争を指導した、日共本部派遣のオルグ山根修や、東京民報へいった福手和彦や徳間康快である。その中、連絡のとれているのは、アサヒ芸能社長の徳間だけだ。
私の仕えた初代社会部長小川清も去り、宮本太郎次長はアカハタ紙へ転じ、入社当時の竹内四郎筆頭次長(現報知新聞社長)が社会部長に、森村正平次長(現報知編集局長)が筆頭次長になって
いた。昭和二十二年秋のことだ。
東京に帰りついた翌日、私は出社した。二年間の捕虜生活も、新聞記者にもどったよろこびで身体は元気一ぱい、何の疲れもなかった。竹内部長はきさくに片手をあげて、編集の入口でマゴついている私を呼んだ。森村次長が早速いった。
「何か書くかい? 書けるかい?」
「エー、もちろん、書かせて下さい」
森村次長は、捕虜から帰ったばかりの私が、使いものになるかどうかみようと思ったらしい。私はその日帰宅すると、徹夜でシベリア抑留記を書いて持っていった。
「ウン、つまらんね」
軽くイナされてしまった。私は実のところ、何を書いていいか判らなかったのだ。森村次長はただ「書くかい?」といっただけ。私は心中腹を立てて、その原稿を取りもどすと、またその夜も徹夜した。今度は、新聞記者のみた、シベリア印象記を書いた。
「ウン、これなら使える。御苦労さん。しばらく、挨拶廻りもあるだろう。休んでいいよ」
やっと、ネギライの言葉がもらえた。
数日後、私は郷里の盛岡で、驚きと感激に胸をつまらせながら、読売新聞をみつめていた。一枚ペラ(表裏二頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。その記事を読みながら、私は涙をボトボトと、紙面に 落した。