ソ連人たちは、エヌカーの何者であるかを良
く知っている。兄弟が、友人が、何の断りもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐ろしさは、十分すぎるほどに判っているのだ。
——これは同胞を売ることだ。不当にも捕虜になり、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!
——或いは私だけ先に日本へ帰れるかもしれない。だがそれもこの命令で認められればの話だ。
——次の命令を背負ってのダモイ(帰国)か。私の名前は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代りに、永遠に名前ののらない人もできるのだ。
——私は末男で独身ではあるが、その人には妻や子があるのではあるまいか。
——誓約書に書いたことは、果して正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。
——だが待て、しかし、一カ月の期限は、すでに命令されていることなのだ……。
——ハイと答えたのは当然のことなのだ。人間として、当然……。イヤ、人間として果して当然だろうか?
——大体からして無条件降伏して、武装をといた軍隊を捕虜にしたのは国際法違反じゃないか。待て、そんなことより、死の恐怖と引替えに、スパイを命ずるなんて、人間に対する最大の侮辱だ。
——そんなことを今更、いってもはじまらない。現実のオレは命令を与えられたスパイじゃないか。
私はバラッキ(兵舎)に帰ってきて、例のオカイコ棚に身を横たえたが、もちろん寝つかれるはずもなかった。転々として思い悩んでいるうちに、ラッパが鳴っている。
「プープー、プープー」
哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くの方で深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪はやんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。
幻兵団物語
チャンス到来
このような過去をもつ私が、どうして、いかに新聞記者の功名心とはいえ、平気でスパイの暴露をやってのけられるのだろうか。
私に舞いこんできた幸運は、このスパイ操縦者の政治部将校、ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は約束のレポの三月八日を前にして、突然収容所から姿を消してしまったのである。