最後の事件記者 p.426-427 マサの奴に〝生き仏さま〟なンて

最後の事件記者 p.426-427 当時の銘酒屋の建物をはじめ、談話者の写真をも撮っておいた。意外だったのは、マサさんを苦界から身請けした第一の夫、大熊房吉さんに、口止め策がとられていなかったことだ。
最後の事件記者 p.426-427 当時の銘酒屋の建物をはじめ、談話者の写真をも撮っておいた。意外だったのは、マサさんを苦界から身請けした第一の夫、大熊房吉さんに、口止め策がとられていなかったことだ。

教祖の身元アライ
この立正佼成会キャンペーンは、正直のところいって、邪教という結論も出せなければ、叩きつぶして解散させるということも出来なかった。佼成会側の読売不買運動も、地域的には成功したが、「読売を見ると眼がつぶれる」という宣伝も逆効果となって、信者の中に〝憎読者〟もでき、読売はかえって部数がふえるという結果だったから、いうなれば読売の判定勝ちというところであった。

この時に一番面白かったのは、生き仏様の妙佼教祖の、過去の色情のインネンを正確に取材して、バクロしたことであった。佼成会にとっても、教祖の過去が売春婦であったということは、信仰者としての適格性に影響してくるので、一番痛いことではなかっただろうか。

噂として、彼女がオ女郎サン上りだということは、あちこちでしばしば聞かされた。だが、確実なデータは誰も知らない。紙面で書くのは、少しエゲツないので、書かなくとも〝伝家の宝刀〟として正確な事実だけは調べておこう、というので、その取材を私が買って出た。

大正十年前後、約四十年も前の事実を、正確に調べようというのだから、困難な取材であることは覚悟したが、何かマリー・ベルの名画「舞踏会の手帖」を思わせる、たのしみがあった。

佼成会の機関誌によると、御先祖は石田三成を散々に悩ませた、北条側の大将成田下総守の家臣、長沼助太郎という武士で、成田家の滅亡により、自領の志多見村に落ちのび、土着して半農の大工になったという。

戸籍によれば、妙佼こと長沼マサ女は、明治二十二年十二月二十六日、埼玉県人長沼浅次郎の長女として、同県北埼玉郡志多見村に生れた。結婚は戸籍上二回である。

これだけの資料をもって、自動車一台とともに、埼玉、茨城両県下を、一週間にわたって走り廻った。古老たちを土地土地でたずね歩き、彼女が醜業に従事した証拠を探し出したのである。

困ったのは、彼女の同僚だったオ女郎サンを、その家庭にたずねた時である。すでに孫までいる人、しかも耳でも遠くなっていようものなら、怒鳴るような大声で、四十年前のことを、しか

も他聞をはばかる遊廓のことを聞くものだから、あるところでは、息子に怒られて追出されてしまった。

もちろん、当時の銘酒屋の建物をはじめ、談話者の写真をも撮っておいたのである。意外だったのは、マサさんを苦界から身請けした第一の夫、大熊房吉さんに、口止め策がとられていなかったことだ。或いは、口止めが行われていたのを、私が話させてしまったのかもしれない。大熊さんは、はじめはなかなか話そうとせず、「昔は昔だけど、今はあんなにエラクなったのだから、身分にさわる」といって、話すのをイヤがったほどだ。

それが、終いには、

「会からも、いい役につけるから、来いといわれたんですが、会に行けば、マサに頭を下げなければならない。誰が、マサの奴に〝生き仏さま〟なンて、頭が下げられますか。奴は昔はオレの女房だったし、女郎だったンだ。そりゃ、有難やと手をもめば、金になることは判っているンだけど、とても男にゃア出来ねえことだ」

と、気焔をあげる始末だった。

新興宗教の現世利益

マサさんの第一の婚姻の前には、小峰某という情夫がいて、その男のためかどうか、大正十年ごろ、彼女は茨城県境町のアイマイ屋、箱屋の酌婦となった。