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正力松太郎の死の後にくるもの p.132-133 敢闘に次ぐ敢闘の〝読売精神〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.132-133 岩淵のあげる務台の功績の第一は、朝日、毎日という、関西商法の新聞販売方式の盲点を衝き、本社から直接に、その小売店を工作して、毎日系の小売店を大量に、読売系列に編入した、点にあるという。
正力松太郎の死の後にくるもの p.132-133 岩淵のあげる務台の功績の第一は、朝日、毎日という、関西商法の新聞販売方式の盲点を衝き、本社から直接に、その小売店を工作して、毎日系の小売店を大量に、読売系列に編入した、点にあるという。

私が、読売の驚異的な発展の理由を問うたのに対し、務台の即答をソツもなければ、味もないといったのは、この辺の〝今昔物語〟に由来しているのである。務台が、いわんとしていること

は、「販売の何たるかを知っている」という務台の言葉である。

「確かに、もはや、私は販売店を〝歩いて〟いないから、〝現場〟を知らないかも知れない。しかし、〝販売〟の何たるかは、今でも知っている」

昭和四年、務台は、正力に迎えられて、読売の販売部長となった。岩淵のあげる務台の功績の第一は、務台の入社後数年ののちに、朝日、毎日という、関西商法の新聞販売方式(注。一県ごとに大卸し新聞店があり、その下に小売店を置いた)の盲点を衝き、本社から直接に、その小売店を工作して、毎日系の小売店を大量に、読売系列に編入した、点にあるという。

これによって、読売は大きく伸びて、今日の販売店を組織し、さきにあげた驚異的数字の伸びを示すにいたるのだ。と同時に、これが、今日の〝務台教〟の基礎ともなっているのである。そして、今日まで、務台を一筋につらぬいてきたものこそ、敢闘に次ぐ敢闘の〝読売精神〟なのであった。

「八月二十九日には大手町の新社屋の地鎮祭があるし、銀行借入金は殖えこそすれ、減る状況ではないよ。二百億もの大仕事なのだから、それこそ、全社員がフンドシを締めてかかるべき、決戦の秋なのだ」

務台は、心に期するものがあるかのように、言葉を切って、しばし沈黙した。

毎日をふり切ってもはや相手とせず、朝日追いあげに執念を燃やす彼の表情は、まさに〝勝負

師・務台〟のそれであった。朝日制覇ののちの六百万の大台のせと、新社屋の完成こそ、務台が正力の知遇に報いる、最後の花道なのであろう。

〝読売精神〟地を払うか

四十四年八月中旬ころ、読売の全社員と、新聞関係者に、務台の個人名の一通の封書が郵送されてきた。印刷物なので、ここに全文を紹介しよう。

「読売復社の挨拶(昭和二十五年三月七日)掲載紙『新聞通信』の送付について」という見出しの印刷文の末尾は、「務台光雄(読売新聞社 代表取締役 副社長)」の個人名で、肩書は括弧内に小さくそえられている。

「前略、暑さ酷しい折柄ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。降て小生儀、大正七年早大を卒業後、富士瓦斯紡績、郡山紡績を経て大正十二年から数年間、当時の報知新聞社で新聞の勉強をさせて頂き、昭和四年、正力社長のご好意により、読売新聞社に入社して今日に至っております。その間五十余年、公私、内外に亘り、いろいろのことがありましたが、日本にとり一番

大きな事件は第二次大戦と日本の敗戦であることは申すまでもありません。

正力松太郎の死の後にくるもの p.134-135 左傾—読売新聞は最も急進的

正力松太郎の死の後にくるもの p.134-135 同志と共に左右何れにも偏しない、厳正中立な新聞社を創るべく極秘裡に計画を進めておったのであります。先ず最高幹部に新聞界のベストメンバーを迎え、高速度輪転機二台を確保し、資金の見透しもつき
正力松太郎の死の後にくるもの p.134-135 同志と共に左右何れにも偏しない、厳正中立な新聞社を創るべく極秘裡に計画を進めておったのであります。新聞界のベストメンバーを迎え、高速度輪転機二台を確保し、資金の見透しもつき

「前略、暑さ酷しい折柄ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。降て小生儀、大正七年早大を卒業後、富士瓦斯紡績、郡山紡績を経て大正十二年から数年間、当時の報知新聞社で新聞の勉強をさせて頂き、昭和四年、正力社長のご好意により、読売新聞社に入社して今日に至っております。その間五十余年、公私、内外に亘り、いろいろのことがありましたが、日本にとり一番

大きな事件は第二次大戦と日本の敗戦であることは申すまでもありません。そして読売新聞と正力さんにとっても、これは最大の事件で敗戦直後の昭和二十年の十月に朝日、毎日に次いで読売にも共産党との連絡のあった戦争責任追及の争議が起り、正力社長がその解決に努力中、戦犯の指名を受け、更に十二月十一日に巣鴨に収容されることが発表されましたが、その前日、正力さんの堅い決意と体を張っての徹夜の交渉により、経営権と人事権を会社に確保し、馬場さんを後任社長に推薦し、これを決めた後巣鴨に行かれたことはご承知の通りであります。私は争議の起る前の十月五日に、終戦後に新らしく生れた日本新聞連盟の理事長に推薦され就任しておりましたが、正力社長の辞任と共に、本社の取締役は辞任し、連盟の仕事に専念しておりました。

しかし当時の新聞は敗戦の事実とソ連を含めた連合軍司令部の政策の影響を受けて、殆どの新聞が左傾し、中でも読売新聞はその指導的立場に立って最も急進的でありました。従ってこれをこのまま放置するときは、やがて日本の独立にも悪影響を及ぼし、その復興と再建に大きな支障を来すこと必至と考え、同志と共に左右何れにも偏しない、厳正中立な新聞社を創るべく極秘裡に計画を進めておったのであります。先ず最高幹部に新聞界のベストメンバーを迎えることに成功し、高速度輪転機二台を確保し、資金の見透しもつき新聞用紙の配給については、相当量につき(第一回分五十万部、以後成績に応じて増量することに)総司令部首脳の諒解を得て創刊直前にあったのであります。

しかしこのことが偶々読売の最高主脳部に伝わり、その後先方の要請により、私と馬場社長の意を受けた、武藤常務と会見、懇談の結果

一、読売新聞を正常化して、日本の再建と復興に努力すること。

二、その実現には両者が(馬場、武藤と務台)全面的に協力してこれに当ること。

三、務台は創刊準備中の新聞の発行を止めて、これに要する努力を読売の正常化と再建のために尽すこと。

このように両者の意見が一致いたしましたので、新設新聞の関係者と協力者には、卒直に事情を説明して、中止につき諒解を求めましたところ、何れも読売が正常化すれば、われわれの目的は達せられるからといって諒承して頂きました。

そこで武藤氏と会見の上、その他具体的の方策についても種々協議し、その準備にとりかかったのであります。

斯くて昭和二十一年の春から夏にかけて、世間の注目を浴びた読売の極左分子追放、主導権確立の、第二次争議は、幹部の努力と社員、販売店の協力により、小生またその責任を果して、計画通り赤化社員の退社と共に解決され、久しぶりに読売本来の姿にかえったのであります。

ところで争議の解決後小生は前の話し合いにもとづき、専務として当然読売に復帰する筈でありましたが、実際にはそれが実現せず——その後幾多の紆余曲折を経て二十五年の二月に——平

取締役として入社することになったのであります。

正力松太郎の死の後にくるもの p.136-137 読売にとっても貴重な記録

正力松太郎の死の後にくるもの p.136-137 務台の挨拶全文が記録されている。これには、務台の「新聞観」と、純一無雑な「読売への忠誠心」とが盛られている。そこに、務台がこのコピーを配付した意図がうかがわれるのであるが
正力松太郎の死の後にくるもの p.136-137 務台の挨拶全文が記録されている。これには、務台の「新聞観」と、純一無雑な「読売への忠誠心」とが盛られている。そこに、務台がこのコピーを配付した意図がうかがわれるのであるが

ところで争議の解決後小生は前の話し合いにもとづき、専務として当然読売に復帰する筈でありましたが、実際にはそれが実現せず——その後幾多の紆余曲折を経て二十五年の二月に——平

取締役として入社することになったのであります。そして翌三月七日に開かれた読売七日会(各県の代表的有力店主の会)の席上で数年ぶりに復社の挨拶をいたしましたが、その話の内容が当時、業界紙の一つであった「新聞通信」に詳しく掲載されたのを記憶しております。ところが、その新聞を小生の友人が、偶然にも今日まで保存しており、先日現物を持参して来社され、曰く『これは君にとって当時を偲ぶ記念品であると思うが、読売にとっても、貴重な記録であるから、これをファックスにとって広く関係者に見てもらったらどうか』という話があったのであります。そこで早速再読いたしましたが、二十年後の今日からみて、反省と参考になる点が多々あるように思いましたので、言われるままに、改めて増し刷りをいたしました。

斯様な次第で、その一部を同封お届け申し上げますが、お暇の折にでもお読みいただければ幸いと存じます。

末筆乍ら時節柄ご自愛専一に愈々ご健勝にご活躍の程お祈り申し上げます。 敬具」

同封された業界紙「新聞通信」紙(25年8月11日付)は、第二面の全面を使って、「務台光雄氏 読売新聞復帰第一声」という、凸版の全一段通しの横見出し。頭に、「複雑怪奇な私の復社、正力社長反対の真相に就て」という、五段の二本見出しで、読売七日会(注。販売店主の会)例会における、務台の挨拶全文が記録されている。

「務台光雄氏が復帰して、始めての読売七日会は、都内読売会幹部も交えて、七日(注。25年3月)午後二時から、日比谷陶々亭に開催。当日地方から出席した販売店八木会長以下五名、都内野村会長以下三十一名、本社から馬場社長、安田副社長、武藤常務業務局長、小島取締役、務台取締役、菊池販売部長、村田出版局総務部長、その他各部長、各担当社員列席して開会」

と、本文記事があり、馬場社長と武藤常務の挨拶を簡単に紹介したのち、務台演説の全文となっている。

これには、務台の「新聞観」と、純一無雑な「読売への忠誠心」とが盛られている。そこに、務台がこのコピーを配付した意図がうかがわれるのであるが、同時に、掲載紙が新聞業界紙であったことから、それらを記事の重点とせずに、前半の人事問題にウェイトを置いて、そのような見出しをつけていることもあって、反響は意外な形で出てきたのであった。

まず、務台の「新聞」と、「読売」への愛情を、そのコピーによって見てみよう。

「水を飲みて源を思うは人の至情なり——事の成るには必ず成るべき理由と、依って来るところがあるのであります。いつか馬場社長が拙宅へ御出でになった時、いろいろと御話を承りましたが、その時私は新聞人の在り方について、即ち新聞人の根性について御話しをいたしたのであります。

正力松太郎の死の後にくるもの p.138-139 自己の全生命を読売に託す

正力松太郎の死の後にくるもの p.138-139 愛社心とは何か、それは理屈ではない、われわれのこの感情が偶々問題にぶつかった時、止むに止まれぬ力となって外に現われたものと思うのであります。
正力松太郎の死の後にくるもの p.138-139 愛社心とは何か、それは理屈ではない、われわれのこの感情が偶々問題にぶつかった時、止むに止まれぬ力となって外に現われたものと思うのであります。

新聞人はプライドを持たなければならない、いやしくも天下の大新聞の社長ともあろう者は、他の地位に、例えそれが総理大臣であろうと、また大政党の総裁であろうと、これに心を動かして腰がふらつくようでは仕方がない、新聞には別の使命があるからこれを通すという強い信念と、高い識見がなければならない、然もこのことは一般新聞人に対しても言い得ることだといって御話し、社長もこれには全幅の賛意を表されたのでありますが、新聞に従事する者は編集、業務各々立場は異るも、これを天職とし、これに殉ずる覚悟が必要と思うのであります。

その時私は更に進んで誠に僭越ではありましたが、次の御話しをしたのであります。

私は今でも読売新聞は自分のものであると思って居る、というのはこれは所有権の問題ではない、所有権は株主にあることは勿論であるが、それは所有権を遙に超越した力強いものである。所有権はこれを他に譲渡しようと思えば何時でもできるし、また一旦譲渡すれば全く関係のなくなるものであるが、われわれのこの気持というものは如何なる権力を以ても、また如何なる金力を以ても絶対に冒すことのできない、俗に血の繋りと申しましょうか、富貴も淫する能わず威武も屈する能わざるものであります、自己の全生命を読売に託すということ、そしてこれに生活の意義を見出すということ、考えればこれは極めて平凡なことでありますが、われわれ凡人はこれに大なる誇と無限の悦びを感ずるのであります、愛社心とは何か、それは理屈ではない、われわれのこの感情が偶々問題にぶつかった時、止むに止まれぬ力となって外に現われたものと思うのであ

ります。(中略)

(読売信条については)〝われわれは真実と公平と友愛を以て信条とする〟真実とは虚のないこと、作りごとのないことである。私が私の復社について極めて概略ではありますがその要点を御話し申上げたのは、坊間これにつき無責任なる噂がとんでおる。例えば私が読売に復社したのは、こんどは前の場合とは全然反対に正力さんの推せんによるものであるとか、あるいはまた務台は正力系を代表して入ったのであるとか、更に務台の立場は品川や清水と同じであるとか、その他いろいろ為にすると思われるような風説がとび、業界に誤解を生じているのであります。

併し私が読売に復社したのは、前にも申上げた通り馬場社長の御好意によるものであり、また品川、清水の両氏が読売の重役になったのは、正力さんの株を代表して入ったのに対し私の場合は復社の上重役になるということで復社に重点があり、重役は付け足りとは申しませんがこれは第二で、その他両氏の立場とは性質が全然異るのであります。かような次第でありますからこの間における事情を明にし、真実を御伝えするのが業界のためにも、また読売のためにも必要であって、これが私の義務であり、責任であると信じましたので申上げた次第で、全く他意はないのであります、従って私の話は神明に誓って間違いのないことを特に申上げます。

言うまでもなく新聞は社会の公器であります、これは株主のものでもなければ経営者のものでもない、また社員のものでもありません。

正力松太郎の死の後にくるもの p.140-141 社員たちの受け取り方

正力松太郎の死の後にくるもの p.140-141 このコピーの見出しは、「複雑怪奇な私の復社、正力社長反対の真相に就て」とある。しかも、岩淵辰雄が指摘するように、馬場恒吾をロボット化した、安田副社長——武藤常務ラインの、対正力クーデターという、微妙な情勢下の務台復帰であった
正力松太郎の死の後にくるもの p.140-141 このコピーの見出しは、「複雑怪奇な私の復社、正力社長反対の真相に就て」とある。しかも、岩淵辰雄が指摘するように、馬場恒吾をロボット化した、安田副社長——武藤常務ラインの、対正力クーデターという、微妙な情勢下の務台復帰であった

従ってこれを運営するに当っては正力系もなければ馬場系もない、またあってはならないのであります、広く読者の心を心として使命遂行のために会社一丸となって最善の働きのでき得るようその協力体制を作ることが必要であります。

昔から派閥のある新聞は必ず読者と世間の信用を失い、やがて没落の運命を免れないのであります、私の心境は強いてこれをいうならば、読売系に属すという以外に答を知らないのであります。(中略)

馬場社長は常に新聞は読者のものであることを説き社員には謙虚たれと教えているのであります。

私はこの社長の精神と指導に遭い、安田、武藤の両君ともこん然一体となり幹部諸賢並に各位の御鞭撻の下に、心を新にして新生の一歩を踏み出し、大読売建設の礎石たらんことを切に念願するものであります」

前述したように、このコピーの五段見出しは、「複雑怪奇な私の復社、正力社長反対の真相に就て」とある。しかも、岩淵辰雄が指摘するように、馬場恒吾をロボット化した、安田副社長——武藤常務ラインの、対正力クーデターという、微妙な情勢下の務台復帰であったのである。しかも、二十五年三月にこの第一声をあげてからも、務台の読売出社は「玄関に武藤が待ってい

て、務台の出社を阻止した」(岩淵の話)などと、なかなかウマクゆかず、本人が語るように、翌二十六年一月からになるのである。

このような人事問題の部分が、見出しや大きな活字で組まれているのであるから、コピーを送られた社員たちの受け取り方は、まさに〝親の心子知らず〟であった。肝心の「新聞」や「読売」への愛情が、吐露されている部分は、活字の細かいせいもあって、見落されてしまったのである。

務台側近筋は、その意図をこう語る。

「務台さんの願いは、もう二十年も前の、あの第一次、第二次のストのころのことを知ってる人が少なくなり、戦後派の若い人たちが社員に多くなってきました。もう、〝読売精神〟といっても、それがどんなものなのか、理解されなくなってきているのです。

二万の小新聞『読売』が、正力さんが第七代の社長となってから十年で八十万、十二年で百万、十五年で百五十万、という、驚くべき躍進をとげ、戦後もまた、用紙統制の撤廃時に、百八十七万。それが、十八年間で五百二十七万という、またまたの大躍進です。

この成長の秘密は、務台さんによれば、やはり〝読売精神〟なのです。薄給にもめげず、読売と共に生き、読売と共に死ぬという、運命協同体の精神が、いわゆる〝読売精神〟なのだと説かれます。

正力松太郎の死の後にくるもの p.142-143 いうなれば〝檄〟を飛ばした

正力松太郎の死の後にくるもの p.142-143 薄給に甘んじて、読売と共に生き、読売と共に死ぬ、運命協同体の思想は、昭和三十年代までは、その神通力を発揮した。だが、「新聞」そのものの体質の変化は、この思想を現実遊離に追いやった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.142-143 薄給に甘んじて、読売と共に生き、読売と共に死ぬ、運命協同体の思想は、昭和三十年代までは、その神通力を発揮した。だが、「新聞」そのものの体質の変化は、この思想を現実遊離に追いやった。

今年はいよいよ、新社屋建設の初年度。しかも、日本制覇の朝日との決戦の年です。この秋に当り、全社員に、いうなれば〝檄〟を飛ばしたのが、あのコピーの配布でした。

もちろん、小林与三次副社長にもお見せしたし、全重役の了解もとって、やったことでした。それも、たまたま、務台さんの友人の方(注。御手洗辰雄といわれている)が、蔵書の整理をしていたらあの新聞が出てきた。発行所に聞いてみると、もう、保存もされていないという。そこで、『これは貴重な資料だから、保存されたらどうか』と、務台さんに下さった。読み返してみると、今の読売社員に訓えるべき内容を含んでいる、というので、自費で作られて、個人の資格で配られたものなのです。

ところが、全く思いもかけない反応が起きてしまって……」

思いもかけない反応——というのは、改めて説明するまでもなかろう。〝ポスト・ショーリキ〟をめぐる、正力コンツェルンの動きである。

薄給に甘んじて、読売と共に生き、読売と共に死ぬ、運命協同体の思想は、昭和三十年代までは、その神通力を発揮したのであった。だが、「新聞」そのものの、体質の変化は、この思想を現実遊離に追いやってしまった。ここに、務台—原ラインが、現場から浮いてしまっているという、私の論拠がある。

出向社員は〝冷飯〟組

さて、ここらで各社の体質をみなければならない。

昭和十八年十二月十五日現在の社員名簿によれば、有限会社読売新聞社は、代表取締役社長正力松太郎以下二千八百三十三名。しかも、ほぼ二割もの応召休職者を加えての人数だから、実数は二千名チョットであろう。それから二十年六カ月後の、三十九年六月一日現在の名簿をみると、社主(注。法的権利義務がない)正力松太郎、代取副社長高橋雄豺、代取専務務台光雄以下(注。社長空席)四千六百五名。

二十年前に現在の本館が外側六階、内側三階だったものが、増築され、さらに二つの別館ビル。札幌、高岡、大阪、北九州の四発行所を加え、完全な全国紙の態勢を整え、四十年元旦の社告によると、東京本社三百三十二万六千七百部、大阪本社百二十六万四千部、西部本社二十八万一千部、合計四百八十七万九百十四部の有代部数を発行している。人員は二倍、部数は五倍という、驚くべき発展ぶりである。

この数字に見る限り、読売は、日本三大紙の雄と、称し称せられるのも当然である。そして、

社主正力松太郎もまた、この事実に関する限り、〝偉大なる新聞人〟と、自ら誇り、かつ尊敬せらるべきことも、動かし難い事実である。