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新宿慕情 p.078-079 カツ丼なんて〈料理〉のうちではない

新宿慕情 p.078-079 「カツ丼なんか作れるか。そんなら辞める。」と、ケンカしてしまったのョ。…チーフに辞められたら、もう、あの店はおしまいよ。
新宿慕情 p.078-079 「カツ丼なんか作れるか。そんなら辞める。」と、ケンカしてしまったのョ。…チーフに辞められたら、もう、あの店はおしまいよ。

「ママ、ナニ泣いてんだい?」
と、冗談半分にきくと、ママはオロオロ声で答えた。
「私は、お店をやってんだから、お客さんの希望だから、カツ丼を作って、と、チーフに頼んだの……。するとチーフは、『一人前のコック

が、カツ丼なんか作れるか。そんなら辞める』と、ケンカしてしまったのョ……。チーフに辞められたら、もう、あのお店はおしまいよ。このカツは、アタシが揚げたのだから、お口に合わないかも……」

もう、涙声で、語尾もさだかではない。

「……」

私も唖然としてしまった。私のフトした〝出来心〟から、カツ丼の注文となったのが、こんな〝破局〟を招くとは!

ママの細い肩が波打つのを見て、ヒシと抱きしめてやりたいいじらしさだったが、チーフもチーフだ、と思った。

といっても、良い意味だ。カツ丼なんて、〈料理〉のうちではない。それを作れ、とは、経営者でも、いいすぎだ。日本画家に枕絵を描け、この私に、ポルノ小説を書け、というにも等しい侮辱ではないか!

——カツ丼なんて、お惣菜だ!

そう、タンカを切ったチーフの姿とダブって、いま、牛やで照れ臭そうにしている男の顔があったからだ。

その数日後に、通りで出会ったチーフは、晴れ晴れとして笑顔で、私にいった。

「ビフテキなら、牛やよりウチのほうが旨いですよ。断然!」

味噌汁とお新香

ご自慢のビフテキ

「ビフテキなら、ウチのほうが旨いですヨ!」と、叫んだのは、牛やから十メートルも離れていないかつ由のチーフであったが、いま、この原稿を書いている〝原動力〟が、その、かつ由ご自慢のビフテキなのである。

ビーフ・ステーキとビフテキとは、ひと味違う……ポーク・カツレツとトンカツとの違いとも違う。というのは、ビフテキは〝料理〟であって、〝お惣菜〟ではないのであろうか。

つまり、味噌汁やご飯が、ビフテキの場合には、トンカツと違って、フィットしないのだ。

かつ由のチーフが、わざわざ〈和風ビフテキ〉と銘打った、この店の呼びものは、シイタケ、ピーマン、ニンニクなど、各種香辛料も加えた薬味が、ビフテキの上に山盛りになっているのであった。

盛り合わせは、フライド・ポテト、インゲン、甘煮ニンジンなどの、彩り野菜の時もあるが、ナスの精進揚げとかいった〝和風〟なものもつく。

新宿慕情 p.080-081 かつ由の客はバッタリと遠のいてしまった

新宿慕情 p.080-081 深い事情は知らぬが、その誇り高きチーフが、やがて辞めてしまって、ママは方向転換を考えたらしい。…どうなることかとみていると、レストラン・ラステンハイムという名前に変わった。
新宿慕情 p.080-081 深い事情は知らぬが、その誇り高きチーフが、やがて辞めてしまって、ママは方向転換を考えたらしい。…どうなることかとみていると、レストラン・ラステンハイムという名前に変わった。

かつ由のチーフが、わざわざ〈和風ビフテキ〉と銘打った、この店の呼びものは、シイタケ、ピーマン、ニンニクなど、各種香辛料も加えた薬味が、ビフテキの上に山盛りになっているのであった。
盛り合わせは、フライド・ポテト、インゲン、甘煮ニンジンなどの、彩り野菜の時もあるが、ナスの精進揚げとかいった〝和風〟なものもつく。

これが、実に旨い。

牛やのビフテキには、肉の旨さだけで、もうひとつ、コックの愛情が欠けているようだ。

というのは、材料肉の良質さにオンブしてしまって、鉄板焼き風に、サービス係の女性たちが料理するからであろう。

私も、一度だけしか、牛やのビフテキを食べていないから、そう断定する自信はないが、オイル焼きと違って、ビフテキはやはり、コックの手にかけるべき〝料理〟だと思う。

そして、スキヤキも、牛やでは、感嘆して食べた記憶は、あまりない。つまり、ともに、材料肉に頼りすぎて、〈味〉が忘れられている感じなのだ。

しかし、しゃぶしゃぶには、タレの秘訣がある。肉とスープとタレとの、渾然一体のチームワークの〈妙味〉なのだろう。ともかく、絶賛に値する、牛やのしゃぶしゃぶである。

さて、こうして、ビフテキに関しては、隣組のかつ由に軍配をあげるのだが、その〝可愛い〟タイプのママには、まだ書かねばならぬことがある。

深い事情は知らぬが、その誇り高きチーフが、やがて辞めてしまって、ママは方向転換を考えたらしい。

店内改装のため休業、という掲示が出て、大工が入り始めたのは最近のこと。店内をすっかり模様換えしているので、一体どうなることかとみていると、レストラン・ラステンハイムという名前に変わった。新装開店してみると、これまた、隣組のビジネスホテル・サンライトの前マネ

ージャーが、黒服を着て挨拶し、制服のボーイがふたり立ち働く……といったアンバイなのである。

裏通りの横丁で、こんな気取ったレストランが、商売になると思うママの気持ちが、理解できなかった。

元マネージャーくんにきけばボーイ、コックとも、チームを組んで、開店を手伝ってやったということだったが、案の定、かつ由の客は、バッタリと遠のいてしまった。

ママのフンイキと

中食には、味噌汁とお新香付きのサービスランチ。夜は、ママのフンイキとチーフの味とを求めるボトルの客。これが、かつ由の〝存在価値〟だったというのに!

通りで出会ったママに、私は忠告を試みた。

「マダーム・ラステンハイム。景気はどお?」

彼女は、それでも、愛くるしく笑った。

「先生がきて下さらないから、もう、クビをくくらなきゃ……」

「チーフはどうしたのサ?」

「郷里にひっこんだままよ」

「劉備が三顧のこよなき知遇……という言葉、知ってるかい」