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新宿慕情 p.110-111 カジヤマ・ウノ・カワカミ如き文章を書いて

新宿慕情 p.110-111 「このナフキンみたいなものはなにに使うのです?」「毛唐どもは、京花など使用しないだろ。後始末に、あの布切れを使うのだよ」
新宿慕情 p.110-111 「このナフキンみたいなものはなにに使うのです?」「毛唐どもは、京花など使用しないだろ。後始末に、あの布切れを使うのだよ」

先生は、二枚のハンカチを手にして、バスルームへと、私を誘った。
「手を洗いなさい」と、ゼスチュアで示して、先生も、自らそうした。ハンカチは、洗濯もの入

れに投げこまれた。

夫人がいないのだから、これは、キット家政婦に洗わせるに違いない。

大阪のロイヤルホテルのバスルームには、ハンカチ大と手拭い大のタオル、それに大きなバスタオルと、三種類のタオルのほかに、食事のナフキンと同じ布地のものがセットされているので さる物知りにたずねた。

「このナフキンみたいなものはなにに使うのです?」

「毛唐どもは、京花(きょうはな紙)など使用しないだろ。後始末に、あの布切れを使うのだよ」

そういう説明を聞いた時、私は、あの音楽家との〝交響曲〟の後始末を想い出して、ハハンとうなずいたものであった。

バスルームを出た先生は、まるで、ツキモノがオリたかのように、私などには眼もくれず、サッ、サッと、力強い足取りでピアノに向かい、また、激しく嵐の曲をカキ鳴らすのだった。

いまならば、これをオスペといい、フィンガーテクニックなどというのだろうが、ピアノ弾きの指の鍛練には、キット、あのようなオカマのスタイルが、必要なのであろう。

なぜひとり男装?

先生の演奏が、〝交〟響曲であって、〝後〟響曲でなかったのは、もはやふたたび、そのようなチャンスに恵まれないであろう私の〈性生活史〉にとって極めて、残念なことであった。

しかし、私のオカマ初体験が意外に〝健康的〟であったことが、私を精神的に健康にし、健康な肉体と、健康な性とを持たせてくれたのであろう。

もしも、この先生によって、〝後〟響曲を演奏されていたら私は不健康な男に成長し、カジヤマ・ウノ・カワカミ如き文章を書いて、〝性〟論新聞を主宰するようになっていただろう。

そのことを、太平洋戦争前にアメリカに移住していった先生に、感謝しなければなるまい。

またまた、余談が長くなってしまったが、松喜鮨のヤッちゃんが、ほんとうの薔薇門教徒なのか、どうか?

私には、ヤッちゃんとの〝交情〟がないだけに、どうも、営業政策のように思えてならないのである。

あのレコードジャケットで〝男装〟なのは、ヤッちゃんだけ、だから……。

〝禁色〟のうた

留置場では女無用

もうしばらく、オカマの話をつづけさせていただくことにしよう。

新宿慕情 p.112-113 留置場という〝仮の宿〟だから

新宿慕情 p.112-113 こうした拘禁状態の中で、セックスが、どういう形で出てくるかが、私の興味の中心だったけど、これが、まったく、期待外れであった。
新宿慕情 p.112-113 こうした拘禁状態の中で、セックスが、どういう形で出てくるかが、私の興味の中心だったけど、これが、まったく、期待外れであった。

留置場では女無用

もうしばらく、オカマの話をつづけさせていただくことにしよう。

「安藤組事件」で、犯人隠避容疑に問われて、警視庁の留置場に二十五日も入っていたのは、昭和三十三年の夏だから、もうあれから十七年も経ってしまったことになる。

外人の老ピアニストに、唇を求められた少年の日に、「エエイ、もう一歩、踏み出そう」と思ったように、私が留置場に入った時も、〈社会部記者の好奇心〉はみちみちていた。

留置場という、特殊な社会でも、それなりに、社会秩序維持の不文律があった。

各檻房には、檻房長官がいてそれぞれの容疑罪名が、ステータスになっていた。

傷害とか、銃刀令とか、やはり、〝力〟が正義であった。殺人未遂はいたが、殺人はいなかったので、殺人が、どれほどの地位におかれるのかは、不明であった。

いずれにせよ、暴力団のケンカのたぐいが、大きな地歩を占めている。

だから、サギや窃盗などは、この社会では一番軽蔑されるようだ。不思議なことには、スリだけは別格で、やはり、技術者として、尊敬されている。

こうした拘禁状態の中で、セックスが、どういう形で出てくるかが、私の興味の中心だったけど、これが、まったく、期待外れであった。

留置場での生活では、〝女〟は、まったく問題外であった。

朝、検察庁へ行く時、手錠をかけられた連中は、手錠の両手をつなぐクサリの、その真ン中にもうひとつ、丸いワッパがついていて、その穴に、太いロープを一本通されて、いわゆる数珠つなぎになる。

私は〈特別待遇〉で、この数珠つなぎを経験せず、いつも、単独護送で、仲良しになった刑事とふたり、たがいに片手錠をかけて、桜田門から、向かい側の地検にブラブラと歩いていった。

ズボンのポケットに手を入れて、ふたり並んで歩くのだから、手錠は隠れて見えず、あまり、不愉快な思いはしなかった。

ただ一度、夜の呼び出しがあって、当直の、知らない刑事に連れられて行った時だけ、両手錠に、腰縄を打たれたのが、すごく屈辱的だった。

毎朝、この数珠つなぎを見ていると、男を全部つないだあと、今度は女性をつなぐ。それを見ていて、女に並んだ、男の最後のヤツが、うれしがるかと思ったらまったく無関心なのである。

留置場の窓から、警視庁の中庭を眺めていて、美人が通るのを見かけても、房内のだれもが関心を示さない。

ここでの生活の、最大の関心事は、金網の針金をヘシ折って小さなクギを作り、それで、壁や板の床に、カレンダーを書いては、毎日、毎日、それに×をつけて、保釈や、釈放の日を指折り数えることだけ。

しかし、その道の先輩たちにたずねてみると、それも留置場という〝仮の宿〟だからであって、拘置所や刑務所送りになって、拘禁の期限がハッキリすると、やはり、男色はあるそうである。女への関心も、グッと高まるそうだ。

事実、シベリアの捕虜生活でも、可愛らしい少年兵がいたので、男色はあった。もっとも、そ

れも、体力がつづいていた二十年の暮れまでで、それ以後はサッパリだった。