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シベリヤ印象記(4) シベリヤ印象記のはじめに④

シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫の手紙原稿(シベリア会のみなさんへ1986.12.07)
シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫の手紙原稿(シベリア会のみなさんへ1986.12.07)
シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫66歳(左から2人目 シベリア会の水上温泉旅行・奥利根館1987.06.21)
シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫66歳(左から2人目 シベリア会の水上温泉旅行・奥利根館1987.06.21)
シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫66歳(右端 シベリア会の水上温泉旅行1987.06.22)
シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年(1999)8月28日 画像は三田和夫66歳(右端 シベリア会の水上温泉旅行1987.06.22)

シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年8月28日

旧軍隊の組織について、長々と書いたのはほかでもない。60万人の日本兵を捕虜にして、一割の6万人を死なせてしまったソ連だが、この60万人の組織が、在満日本軍のほかに、在支軍、在蒙軍、一般市民に分かれる。それらの出身別を理解しないと、ソ連側の対応が理解できない。

チェレムホーボ第一収容所は、私たち第二〇五大隊基幹の1500名が第一大隊、第二〇三大隊基幹の1500名が第二大隊、在満軍(関東軍は南方転出していたので、その交代部隊)基幹1000名の第三大隊、計4000名の収容所だった。戦闘に勝って捕虜を獲得すると、これを収容する建物と食料とが重大問題である。どうして食わせるかが、頭痛のタネである。コソボの難民問題も同じである。いわゆる南京事件で、日本軍が捕虜を殺したというのは、日本軍でさえ食料に事欠くのだから、正規に捕虜とする前に“処置”してしまった事も、事実であろう。

私たちがチェレムホーボに第一陣として到着した時、ソ連側は食料の準備など、できていなかった。私たちが満州から貨車に積みこんで持ってきた、米、味噌、醤油で、12月頃まで食いつないだのだ。その間に、ソ連側は満州から、日本軍が蓄積していた馬の飼料(コーリャン、アワ、ヒエ、などの雑穀類)を輸送してきて、支給した。

つまり、ソ連側の日本兵捕虜をどうするのか、その大方針が昭和20年いっぱい、決まっていなかったのである。そればかりか、零下数十度の酷寒である。私の体験したのが零下52度。風速1メートルで体感温度は1度下がる。日本人の多くが、初めて体験する寒さだから、作業するどころではない。手はいわゆる軍手の綿、その上に毛の防寒手袋。さらに和紙の入った防寒大手袋をしても、寒さで手がシビれてくる。足も綿靴下、毛の防寒靴下、さらに防寒靴という毛皮裏の靴。そんな重装備でも、足踏みをしながら、手の指を握ったり、伸ばしたり。顔は毛皮つきの防寒帽で耳まで覆っていても、鼻の頭がスーっと白くなって凍傷にかかる。鼻覆いという毛皮で鼻を隠し、露出しているのは目と口だけ。それでも、吐く息でマツ毛に白く氷がつくという始末だった。

米が無くなり、馬の飼料のオカユになって急速に体力が落ちていった。そこに寒さとシラミによる発疹チブス。昭和20年12月から21年3月までの間に、私の推計では800名(2割)が死んだと思う。それも、30歳代以上の召集兵が中心である。20歳代と30歳代との体力の違いが、これほど明らかに、目に見えたのである。

そして、さらに驚いたことには、翌21年の冬である。20年の冬を乗り切った20歳代の連中は、もう身体が酷寒に馴れて、地下炭坑での採炭シャベルを使うのに、胸をハダけて働けることだった。そればかりか、昭和22年の冬の日本で、オーバー不用の寒さ知らず(ついでに、ひもじさ知らず)だった。ただし、23年の冬からは寒かったし、空腹だったのである。人間の身体は1年で風土に同化できることを知った。

ソ連側は、日本兵捕虜を、組織的にシベリア開発の労働に使用し、帰国後の親ソ分子の養成のための洗脳、いわゆる民主化運動を進めたのは、このような無秩序の抑留から、死ぬべきものを死なせたあとの、約1年を経過してからだった。

初等教育も十分でないソ連だから、10月、11月の早朝の寒さの中の点呼で、警備兵たちは、三列に並べて数を数え出すが、十位を過ぎると怪しくなる。五列に並べ直して、また始める。バカらしくて、寒さの中に何十分も立っていられるものではない。大隊長がソ側に交渉して、点呼は日本側の責任でやることになった。

続いて、作業隊の編成、勤務。すべてに日本側の自主管理となった。野戦軍であった私たちは、建制のままで作業隊を組織したのである。一例をあげると、地下炭坑のシトウリヤナは、各中隊から1個小隊宛、朝8時から午後4時、4時から深夜12時、12時から朝8時と、8時間労働の三交代制。三田少尉は三田小隊52名を連れて作業する。そして、炭坑側の要求するノルマ100トンの採炭を完遂すれば、金ダライ(満州からの戦利品の金属製洗面器)一杯のオカユを4人で分配し、ノルマ達成以下だとそれを6人、8人、10人と分配量を減らしてゆく。

この建制の作業は、仲間たちと協力して働くのだから、もう、軍曹も伍長も、上等兵も一等兵も、階級は関係無しだ。だが、礼儀だけはキチンと守られていた。21年いっぱいを経て、ソ連側の管理組織が整備されてくると、この建制のままの捕虜集団では、洗脳教育が難しいことを知ってくる。(つづく) 平成11年8月28日