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読売梁山泊の記者たち p.074-075 「死ぬ時は死ぬんだ」という気持ち

読売梁山泊の記者たち p.074-075 「三田さん。日常の行動に気をつけなさい。駅のプラットホームなどでは、端っこに立たないこと。『読売の三田記者を、合法的に抹殺せよ』という命令が出ている…」
読売梁山泊の記者たち p.074-075 「三田さん。日常の行動に気をつけなさい。駅のプラットホームなどでは、端っこに立たないこと。『読売の三田記者を、合法的に抹殺せよ』という命令が出ている…」

私の初の署名記事、「シベリア印象記」とそれに反論した、キスレンコ中将のコメントとで、私は、たちまち、〝反動読売の反動記者〟として、名前が売れてきた。

いま、スクラップをひろげてみると、まず読売系の雑誌、「月刊読売」には、毎月のように、セミ・ドキュメンタリーとして、ソ連物から、共産党物にいたるまで、〝小説もどき〟を書いている。

「読売評論」から、「科学読売」にいたるまで、さらに、講談社の「キング」「講談倶楽部」から、「モダン日本」「夫婦雑誌」「探偵倶楽部」とつづく。

ことに、当時の国家地方警察本部の、村井順警備課長の推せんで、警察大学で講演したので、警察図書の立花書房の、「月刊・時事問題研究(警察官の実務と教養)」に、毎月書くようになった。

「モダン日本」の編集部には、若き日の吉行淳之介がおり、私の「赤色二重スパイ」という、原稿の担当であり、双葉社の編集には色川武大がいたりした。

村井順は、のちに、緒方竹虎に信任されて初代の内閣調査室長。退官後は、総合警備保障を創立して、社長となった。警備会社の草分けである。

こうして、警備公安畑で名前が売れてきたうえ、一年の法務庁(のちの法務省)での、司法記者クラブ詰めから、公安検事に人脈ができてきた。

吉河光貞検事が、初代の特別審査局(特審局、のちの公安調査庁)長となった。調査第一課長が吉橋、第二課長が高橋の両検事が、その下にいた。

そのころのことである。吉橋課長が、ある時、真顔でいったものである。

「三田さん。日常の行動に気をつけなさい。駅のプラットホームなどでは、端っこに立たないこと。私のほうで入手した文書によると『読売の三田記者を、合法的に抹殺せよ』という命令が出ている。どの段階での指令とかどんな文書か、などという、具体的なことはお話できないが…」

「ありがとうございます。十分に気をつけるようにいたしましょう」

吉橋検事は、私が、あまりビックリしないのが、やや不満そうであった。

また、岡崎文樹の話に戻るが、さる六十二年一月、前年暮れの定期検診で、右肺門部に異常を発見して、精密検査のため、彼は、息子のいる名古屋記念病院に入院した。六時間近い手術を受け、二月十日に退院してきた。

三月ごろのことだったろう。日刊スポーツの編集担当役員として、職場復帰していた彼と、銀座のクラブで、ゆっくり話し合ったことがある。その時、彼は、すでにガンと知っており、長くはない生命と覚悟していた。

その日の話は、華やかに嬌声のこぼれるクラブだというのに、淡々と、ふたりは「死生観」について語っていた。同じ戦中派として、一度は死を覚悟した体験を持つ。

「死ぬ時は死ぬんだ」という気持ちは、諦観というべきか、達観というのか。いずれにせよ、安定した精神状態である。

戦前の白黒映画時代の、ギャングスターのジェームス・キャグニィ主演、題名は「地獄の天使」だったろうか。ギャングのボスであったキャグニィは、死刑を宣告される。

読売梁山泊の記者たち p.076-077 悔いのない〈死〉

読売梁山泊の記者たち p.076-077 岡崎はこういった。「もうすぐ、死ぬんだと考えるけど、いま現在を、ベストに生きていよう、と思うんだ」——私も同感であった。
読売梁山泊の記者たち p.076-077 岡崎はこういった。「もうすぐ、死ぬんだと考えるけど、いま現在を、ベストに生きていよう、と思うんだ」——私も同感であった。

戦前の白黒映画時代の、ギャングスターのジェームス・キャグニィ主演、題名は「地獄の天使」だったろうか。ギャングのボスであったキャグニィは、死刑を宣告される。

と、教誨師が、最後のザンゲにやってきてキャグニィに頼みこむ。「あなたは、不良少年たちのヒーローなのだ。電気椅子に座る時平然としていないでくれ。泣きわめき、のた打ちまわって、叫んでくれ。ヒーローの哀れな末路が、彼らの更生のためにもプラスになるから」と。

キャグニィの悲惨な〝末路〟を、映画はシルエットで映し出し、立会人たちは、失望感をあらわにする。

岡崎はこういった。「もうすぐ、死ぬんだと考えるけど、いま現在を、ベストに生きていよう、と思うんだ」——私も同感であった。〝赤色テロ〟の合法的抹殺! それも、仕事のためであるなら、悔いのない〈死〉である。

朝日の岡崎だけでなく、毎日の岩間一郎・社会部記者のことも、書いておきたい。

昭和六十二年八月十一日付号の正論新聞には、同年七月十三日の岡崎と、八月十二日の岩間の二人が、ガンで亡くなった記事が、出ている。岩間は、司法記者クラブの仲間だ。

岩間は、七月二十日付のハガキを寄越して「…七月十二日に退院しました。また、放談できる日を期しております」と、元気な、見馴れた文字で、書いていたのだった。

岩間とは、呑む機会を得ぬまま、逝かれてしまったが、岡崎とは、その機会があった。だからこそ、「死生観」についても、語りあえたのであった。

兵役、戦争、敗戦、捕虜、帰国、復職と、足かけ五年にわたる、大きな人生の起伏があったのだから、「死」についても、やはり、それなりに考え方が出てこよう。

第二章 新・社会部記者像を描く原四郎