そして残念なことに、うなぎ屋がないのだ。
うなぎほど、高い値段のクセに、味に甲乙がありすぎるものがない。区役所通りに、岡田家というのがさきごろ開店して、そのチラシが、社のポストに入っていた。
店に行ったことはなく、出前を頼むだけだから、いささか、正鵠を失するかも知れない。だがここの特上、千五百円のうな重と、築地の宮川本廛の、同額のうなぎ(汁、めし、おしんこがプラスされるから、厳密には、比較できない)とは、まさに、月とスッポンほど違う。
築地の宮川本廛(宮川、もしくは宮川本店、というのが、近くにあるが、ここは、築地署ウラになる)では、店に入って注文してから、まず、三十分は待たされる。
しかし、ここで、千五百円の蒲焼きを食ったら、まず、「アア、うなぎを食ったナ」と、よろこびに浸れることは、請け合いである。
では、日本料理は? とくると、いうまでもない。中央口のすぐそば。九階建てのビルの八階九階を使っている、京懐石の柿伝である。
お茶の作法を教わりながらの料理は、また、格別なもの。お客さんをしても良し。スタンドで一品でのんでも良し、と、推さざるを得ないが、まず、一万円以上につくことも確かだ。
と、こうして眺めてみると、思いつくままの、私の食べ歩きだが、一店一品種——つまり、おなかが空けば、「いま、自分はナニが食べたいのか」と、情勢分析をする。その結論に従って、「では、あの店に行こう」と、なるわけで、西口と歌舞伎町とがない。
いうなれば、西口と歌舞伎町とは、いっぺんこっきりのフリの客を相手にする、浅草仲見世通りの食べ物屋と、同じ精神だということになる。
ふりの客相手に
「フリー」は間違い
余談だが、週刊新潮誌七月三十一日号の「スナップ」欄に、歯医者の話があって、「フリーの客をしめ出すための……」というクダリがある。
新潮社版の『新潮国語辞典』一七二三ページに「ふり(振り)」の項がある。その七番目にはこうある。「①遊女などが客をきらうこと。②なじみでもなく約束もなく、遊女の客が突然来るもの」
〈フリーの客〉は、これでも明らかなように、〈ふりの客〉の誤りである。週刊新潮誌のために惜しめばこそ、ご注意を申しあげておこう。
さて、〝ふりの客〟などは、あまり立ち入らない一画が、我が正論新聞社のおひざ元だ。
花園神社の正門前に、明治通りをまたいで、大きな歩道橋がある。これを、〝中洲〟のような
花園まんじゅう店を越えて、対岸のかに谷・新宿店側におりると、通称医大通りである。