二十七年一月二十九日、近衛内閣書記官長だった風見章氏の肝入りで、銀座の交詢社に日ソ経済会議が開かれたのをヤマとして、日ソ貿易促進会が生れた。その事務局長には、シベリヤ・オルグ田辺稔氏が就任した。
経済攻勢が成果を納めるや、これは徐々に政治攻勢へと変ってゆく。二十八年五月、風見氏の主催で、日ソ国交調整準備会が設けられ、これは二十九年四月十日、日中日ソ国交回復国民会議となって発足し、事務総長として馬島氏を戴いたが、事務局長はこれもシベリヤ・オルグの土井祐信氏である。
風見氏といい、馬島氏といい、これらの人々は、あるシベリヤ・オルグにいわせると、失礼ながらオポチュニストであるという。オルグからみて担ぎやすい、言いかえれば使いやすいらしいのである。しかし、いわば〝赤いフンイキ〟を持った人たちである。国民を引っ張ってゆくには適当ではない。
そこで、久原氏の引出し工作となった。久原氏は松岡洋右とともに「スターリンとはオレ、キサマの仲」と称する日本人である。二月十一日、久原氏は日ソ国交会議会長に選任されたのである。
ここで、一応交渉が始まるまでの経過をみてみよう。
▽二十九年
十二月十一日 重光外相の「中ソとの国交回復を望む」声明
十二月十六日 モロトフ外相の「ソ連政府に用意あり」声明
十二月二十七日 共同藤田記者、代表部に招致さる
▽三十年
一月十一日 鳩山「国交調整」車中談
一月二十五日 鳩山・ドムニッキー会談
一月三十日 モスクワ放送、ド書簡を確認、交渉地として東京かモスクワを提案、外務省もまたド書簡を発表
一月三十一日 ソボレフ国連ソ連代表より「ド書簡が正式文書なり」との回答が、沢田国連大使へあった
二月一日 沢田大使、交渉地としてニューヨーク案をソボレフ大使に申入れ
二月四日 政府、交渉開始を閣議決定
二月五日 沢田大使、口上書をソボレフ大使に手交
二月七日 鳩山首相、九州の車中談で「交渉地はモスクワでも良い」と語る
二月八日 モロトフ外相、ソ連最高会議で「成功期待」を演説