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迎えにきたジープ p.092-093 日本経済界の地ならし工作

迎えにきたジープ p.092-093 The Kobe Soviet Committee, which was a substantive Kansai branch of the Soviet representative, took steps to capture the Kansai business world in Japan. According to the 1954 Kobe Police Survey, Chairman Poroshin and the members were Yushkov and others.
迎えにきたジープ p.092-093 The Kobe Soviet Committee, which was a substantive Kansai branch of the Soviet representative, took steps to capture the Kansai business world in Japan. According to the 1954 Kobe Police Survey, Chairman Poroshin and the members were Yushkov and others.

大きくいえば、前述の経済、文化工作も政治工作に入るだろうし、現象面に現われてくる事実も何工作と分類できないものが多い。ここでは気にかかる事実を並べてみよう。

1 代表部では二十一年三月に鎌倉市材木座一二四高島直一郎氏所有の洋風平屋建一戸をアジェフ・ニコエフ名儀で買収、さらに二十三年に同町一二七八徳川義親氏邸を買収しようとして、総司令部に止められていたものを、二十一号館を返還した昨夏再び同家に働きかけ、日本人名儀で買取り同人を留守番として住まわせている。

2 この時期に通商代表部は多額の金を某銀行から引出している。

3 メーデー騒じょう事件で、俄然注目を集めた二名の怪外人(藤川アンナ女史でない)のうち一名は、青島より戦後入国した白系露人、他の一名はシベリヤで捕虜に日本語新聞を発行していたコバレンコ中佐で、タス通信記者を装って入国したとみられている。しかも両名は日共関係集会に常に姿をみせている。

4 図書、酒、食料品などの秘密移動市場が都内の空倉庫で開かれ、党員など関係者が只同様に買取って解散する。彼らはそれを高く転売して活動資金としている。

5 食料品、酒はソ連帰還者や第三国人の経営するレストラン、バー、ナイトクラブに送られる。白系露人の多く出入するクラブや喫茶店が増えてきている。渋谷のR、銀座のH、新橋のT、上野のLなど

6 国際ヤミ商人で有名な米人の経営するR店にはこの時期に代表部職員だった白系露人が入社している。

7 代表部の乗用車が都内および三鷹、立川、青梅などの近郊五コースを無停車で走り廻り、しかも一

定地点で必らず超短波無線連絡をとっている。

第一期工作の平静さに比べて、この第二期工作は、眼まぐるしいほどの事件が起きている。しかもその前期は隠密工作で、後期は前期の反動心理を利用した煽動工作である。第二期はこのモスクワ会議で終了し、その目的を達して成功したとソ連側ではいっている。

この間にソ連側が得た最大のものは、各種財界人の色分けが明らかとなり、日本の各個人、各商社の情報資料を入手して全く確認し得たことだ。これは次期(第三期)工作の重要な基礎資料であって、これをすべて握ったことはソ連側として最大の収獲であり、また同時に日本経済界の地ならし工作の成功といえる。

この方面の情報によるとソ連側が最も興味を持っているのは、さきにも述べたように関西財界である。関西財界を思うツボに引ずり込んだ功績は、神戸市生田区山手通二のコウべ・ソヴェト・コミッティだ。ここは元来、経済、文化関係のクラブで、委員長グロレフスキー(二十六年十一月死亡)委員ジム・グロレフスキー(代表部書記、父委員長の死後その跡を継いだ)同キシコフらが仕事を担当、実質的には代表部の関西支部となっている。

二十九年秋の神戸市警の調査によれば、このメムバーも変り、会長はポロシン(洋服地行商)委員としてフェチソフ(洋裁店主)、ベルモント(会社支配人)、ゴロアノフ(拳闘家)、ユシコ フ(無職)らが幹部になっている。

迎えにきたジープ p.116-117 メジャー・田上の名前は耕作

迎えにきたジープ p.116-117 "In my judgment, he is the de facto director of the information department of the representative of Soviet, and is definitely Captain Kirikov, who arrested Japanese bacterial war criminals in the Khabarovsk trial."
迎えにきたジープ p.116-117 ”In my judgment, he is the de facto director of the information department of the representative of Soviet, and is definitely Captain Kirikov, who arrested Japanese bacterial war criminals in the Khabarovsk trial.”

戦死者としてすでに軍籍も失っていた彼は、そこで意外にも嘗つての上官、露人班々長や保

護院長だった青木大佐に解逅した。大佐は飛行機で内地へ帰り、今はその対ソ工作の腕を買われて、CICの秘密メンバーとなっていた。対ソ情報については流石の米国も、元日本軍人の協力を乞わねばならなかったのであった。

東京の顔、銀座。そして夜の銀座の裏通。バンドの旋律に乗って嬌声のこぼれる西銀座も、四丁目から京橋寄りに入ると、幾分静かになって何かホッとした感じになる。

スカッとした二世スタイルになった勝村は並木通りに入る。外人兵の集まるクラブのはずれに進駐軍ナムバーの車が沢山駐車している。時計をみて勝村はウインドウを覗いた。尾行を調べる習慣的な動作だ。

彼を乗せた一台の車が静かにスタート。諜報将校で二世には少ない少佐だった。ラジオを入れて音楽を流す。バックミラーを睨みながら尾行する車があるかどうか注意する。朝鮮動乱が始まってからようやく一年になろうとしていたので、米国も必死になって対ソ諜報に努力を傾けていた。

『御苦労さん。写真の男判りましたか?』

『一九五一年、つまり今年の三月廿三日芝浦入港のソ連船スモールニー号で入国した男です。

資格はシビリヤンで代表部雇員、エゴロフということになってますがね』

『トンデモハップン、ですか。ハハハ』

メジャー・田上は冗談を飛ばしながら、スッと車を走らせて東銀座へ渡り、小さなバーのネオンの下に停めた。二人きりの車内、ラジオを流して盗聴を防ぎ、しかも盛り場の明るい灯の真下で、通りすがりにでも車内の顔をみせないという心くばりだ。

『私の判断では、事実上の代表部情報部長であり、例のハバロフスク細菌戦犯の摘発をやったキリコフ大尉に間違いないですね』

『キャプテン・キリコフは進級したよ』

『ホウ、そうですか。その功によりですな』

『キリコフか?』田上少佐は溜息をもらしながら、また車を移動した。

『最近の動きをみていますと、例のUSハウス九二六号が、大尉(カピタン)・キリコフ、いや、少佐(マイヨール)・キリコフですか、奴の根拠地です。あの辺は米軍の部隊ばかり……』

『燈台下暗しでしたね』 メジャー・田上の名前は耕作といった。名前を説明して『耕やす作ると書きます。私の父は百姓ですから……』と笑うような二世だった。日本人の気持が良く判るのでこの仕事も旨く行くのだろう。

迎えにきたジープ p.152-153 日本に反米感情を育てあげた

迎えにきたジープ p.152-153 The Canon Unit is a secret agency that belonged to G-2. But that was the gang who came for the education of all kinds of colonial crimes. Smuggling, looting, gambling...and drugs.
迎えにきたジープ p.152-153 The Canon Unit is a secret agency that belonged to G-2. But that was the gang who came for the education of all kinds of colonial crimes. Smuggling, looting, gambling…and drugs.

アメリカではこれらの欠点を、やはり金と力と物とで補っている。例えば大がかりな文書諜報である。公刊された各種の新聞、雑誌、書籍、ラジオ放送までの資料を最大限に集めて、その中に明らかにされている片言隻句の情報を集める。それを系統づけてゆくというやり方であ

る。

 その限りではある程度の成功も納め得ているに違いない。後述のタウン・プラン・マップもその伝である。しかし、実行機関の方は常に失敗の連続で破綻を見せ、その失敗の影響が成功の面を喰い荒している。その良い例が、鹿地事件で悪名高いキャノン機関だ。

 キャノン機関というのは、典型的なギャング・タイプのキャノン中佐を長として、G—2に所属していた秘密機関である。その詳細はあまりにも有名であるので、ここでは省略するが、シッポを出したのは鹿地事件ばかりではなく、枚挙にいとまがないほどである。

 その暴状振りは、秘密機関というのも街のボスのそれであり、密航、密貿、略奪、バクチ、麻薬など、それこそあらゆる植民地犯罪の教育に来たギャングそのものであった。

 二十九年六月二十九日、六年四ヶ月の長期にわたった警視総監を辞任した田中栄一氏も、二十三年六月のライアン大尉殺し事件でこのキャノンに脅迫されたのをはじめとして、その在任中悩まされ続けたといっている。斎藤警察庁長官と田中官房副長官との共著で「キャノン罪悪史」をまとめたならば、占領秘史として極めて有意義なものであろう。

 キャノン機関と連絡を持っていたといわれる日本人は、それこそ掃いて捨てるほどいる。赤坂のナイトクラブ、ラテンクォーターに拠る児玉機関、三越前ライカビルの亜細亜産業の矢板

兄弟、これは交詢社で「バラ」という雑誌をやっていた。日動ビルの岩本機関、教文館ビルの日本通商グループの川本芳太郎元中将(31期)ら、柿ノ木坂グループの長光捷治元憲兵中佐(39期)ら、東方社の三田村四郎氏らの三田村機関、北京特機出身の日高富明元大佐(30期)らの日高機関、ハルビン特機出身の小野打寬元少将(33期)らのグループ、朝鮮人の韓道峰らの桂機関、延録機関、馬場裕輔の馬場機関など、書き切れない。

しかし、これらのやった仕事は、純粋な諜報謀略から外れており、金儲け第一主義なのである。(その詳細は第四集〔羽田25時〕を参照)

このような秘密機関のため、日本にどのように反米感情を育てあげたか、NYKビルの功罪は、まだしばらく時をかさねば明らかにはなるまい。

二 ウソ發見機の密室

NYKビルとは一体何なのだろうか。まず、この日本郵船(NYK)がもっている東京駅前の六階建のビルの実態を明らかにしなければなるまい。

一口に秘密機関といっているのは、要するに諜報謀略機関のことである。この秘密機関には、公然と非公然とがあるのは、世界各国を通じて同じである。

例えば、麻布の元ソ連代表部が、諜報謀略工作をやっていることは常識であるが、では何をどうやっているかということは明らかではない。だからこれは公然秘密機関である。警察でも 同様で、公安関係は特高といわれるように、やはり公然秘密機関でもある。

最後の事件記者 p.234-235 ラストボロフ事件が起きた

最後の事件記者 p.234-235 ソ連代表部二等書記官、ユーリ・A・ラストボロフが、大雪の中に姿を消してしまったという、ラ事件が起きた。ラ書記官は、実は内務省の政治部中佐で、スパイ操縦者だった
最後の事件記者 p.234-235 ソ連代表部二等書記官、ユーリ・A・ラストボロフが、大雪の中に姿を消してしまったという、ラ事件が起きた。ラ書記官は、実は内務省の政治部中佐で、スパイ操縦者だった

『ヘッ! おとぼけはよそうヨ。だって、重要犯罪の捜査のために、なくした古ハガキを探して下さいッて、頭を下げたろうが…。大刑事部長の高い頭をサ』

彼の眼に、チラと走るものがある。

『都本部が、この上、三橋以上の重要犯罪をやりだしたら、こちらがもたないよ。エ? 三橋以上の大事件をサ!』

三橋といって、表情をみる。人の良さそうなニヤリが浮ぶ。KRから借りてきた書類を突きつける。またニヤリが浮ぶ。

『いずれにせよ、私は知らないよ』

この答弁をホン訳すると、「そうです。三橋事件ですから、私は詳しいことを知りません」ということだ。反応は十分だ。もうここまでくれば、上の者にいわせねばならない。

次は片岡隊長だ。彼は殉職警官のお葬式にでかけていたので、これ幸いと電話をかけて呼び出す。

『隊長! 例の紛失モノはどうしました』

『エ? 何だって?』

『ホラ、ラジオ東京に頼んだ、三橋事件の証拠品のハガキは、出てきましたか?』

『ア、それは警備部長の後藤君に聞いてくれよ』

ズバリ切りこまれて、隊長は本音をはいてしまった。——こうして、当局は否定したけれども、翌三日のトップで出ると、ついに国警本部の山口警備部長が認めた。

その日の審査日報も引用しておこう。「紛失した鹿地証拠は、誠にスッキリとした鮮やかなスクープで、最近の大ヒットである。国警にウンといわせ得なかったのは残念だが、放送依頼書の複写がそれを補っている。関係者の談話も揃って、全体に記事もよくまとまっている」夕刊「鹿地証拠紛失はついに国警もカブトを脱いで、その事実を認めた」

ラストボロフ事件

三橋事件の余波が、いつか静まってきた、二十九年一月二十四日、帰国命令をうけていたソ連代表部二等書記官、ユーリ・A・ラストボロフが、大雪の中に姿を消してしまったという、ラ事件が起きた。ラ書記官の失踪はソ連代表部から警視庁へ捜索願いが出たことから表面化したのだが、その外交官は、実は内務省の政治部中佐で、スパイ操縦者だったというばかりか、失踪と同

時に、米国へ亡命してしまったということが明らかになった。

最後の事件記者 p.236-237 日暮、庄司、高毛礼の検挙

最後の事件記者 p.236-237 だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。
最後の事件記者 p.236-237 だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。

ラ書記官の失踪はソ連代表部から警視庁へ捜索願いが出たことから表面化したのだが、その外交官は、実は内務省の政治部中佐で、スパイ操縦者だったというばかりか、失踪と同

時に、米国へ亡命してしまったということが明らかになった。

この事件ほど、当局にとって、大きなショックだったことはあるまい。米側の手に入ったラ中佐は、直ちに日本を脱出、在日ソ連スパイ網について供述した。その間、日本側が知り得たことは、ラ中佐の失踪を知って、警視庁へ出頭してきた、志位正二元少佐のケースだけである。

一月二十七日、代表部から捜索願いが出されて、二十四日の失踪が明らかになると、志位元少佐は保護を求めて、二月五日に出頭してきた。二等書記官が実は政治部の中佐、そして、ソ連引揚者で、米軍や外務省に勤めた元少佐参謀。この組合せに、当局は異常な緊張を覚えたが、肝心のラ中佐の身柄が、日本に無断のまま不法出国して、米本国にあるのだから話にならない。

ヤキモキしているうちに、米側から本人を直接調べさせるという連絡があり、七月中旬になって、公安調査庁柏村第一部長、警視庁山本公安三課長の両氏が渡米して、ラ自供書をとった。

両氏は八月一日帰国して裏付け捜査を行い、日暮、庄司、高毛礼三外務事務官の検挙となったのだ。もっとも五月には、米側の取調べ結果が公安調査庁には連絡された。同庁では柏村第一部長直接指揮で、外事担当の本庁第二部員をさけ、関東公安調査局員を使って、前記三名の尾行、張り込みをやり、大体事実関係を固めてから、これを警視庁へ移管している。

この事件は、つづいて日暮事務官の自殺となって、事件に一層の深刻さを加えた。東京外語ロシア語科出身、通訳生の出で、高文組でないだけに、一流のソ連通でありながら、課長補佐以上に出世できない同氏の自殺は、一連の汚職事件の自殺者と共通するものがあった。現役外務省官吏の自殺、これは上司への波及をおそれる、事件の拡大防止のための犠牲と判断されよう。そして犠牲者の出る事実は、本格的スパイ事件の証拠である。

スパイは殺される

ソ連の秘密機関は大きく二つの系統に分れていた。政治諜報をやる内務省系のMVDと、軍事諜報の赤軍系のGRUである。三橋のケースはGRU、ラ中佐はMVDであった。第二次大戦当時、ソ連の機関に「スメルシ」というのがあった。これはロシア語で、〝スパイに死を!〟という言葉の、イニシアルをつづったものだ。

だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。日暮事務官はなぜ死んだか? もちろん、東京地検で、取調べ中の飛び降り自殺だから、遣書などありようはずがな

い。

最後の事件記者 p.238-239 なぜ妻子を残して死なねばならぬ

最後の事件記者 p.238-239 日暮、庄司両氏は、「新日本会」というソ側への協力的団体のメムバーだった。ことに日暮は佐藤大使の秘書的な立場にいたので、一番重要な人物と目されていた。
最後の事件記者 p.238-239 日暮、庄司両氏は、「新日本会」というソ側への協力的団体のメムバーだった。ことに日暮は佐藤大使の秘書的な立場にいたので、一番重要な人物と目されていた。

だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。日暮事務官はなぜ死んだか? もちろん、東京地検で、取調べ中の飛び降り自殺だから、遣書などありようはずがな

い。

高毛礼元事務官の一審判決は、「懲役一年、罰金百五十万円」である。彼は報酬として四千ドル(百四十四万円)をソ連からもらっているので、この罰金がついたのである。納められなければ、一日五千円に換算して、労役場へ留置する、とあるから、これが三百日になる。合計して一年十カ月の刑である。日暮と同じ程度の刑だから、なぜ妻子を残して死なねばならないのだろうか。

終戦時の在モスクワ日本大使館。そこでは佐藤尚武大使以下、在留日本人までが館内に軟禁されていた。そして、この軟禁につけこんで、ソ連側では、スパイ獲得工作の魔手をのばしてきた。「幻兵団」と同じである。

これは、ラストボロフの自供した、ソ連代表部のスパイ一覧表をみれば明らかだ。ラ中佐の亡命時に、狸穴の代表部直結のスパイは四十八名いた。これを所属別に分類すれば、MVD四十三名、GRU三名、海軍二名、人種別では、日本人三十五名、白系ロシヤ人七名、その他の外国人六名となっている。

三十五名の日本人を、さらに分類すると、戦後ソ連抑留者二十名(幻兵団)のほか、外務省官

吏、新聞記者、旧将校らとなっている。日暮、庄司両氏は、終戦時にモスクワにいたばかりではなく、「新日本会」というソ側への協力的団体のメムバーだった。ことに日暮は佐藤大使の秘書的な立場にいたので、逮捕された三人のうちでは一番重要な人物と目されていた。

彼らが逮捕された時の、みじめな私を忘れることができない。八月十四日の公安三課のラ事件のその後の経過発表も、私の公休日という悲運だった。しかも、その時には、すでに日暮、庄司両氏を逮捕していたのである。私は休日出勤してきて、かねて準備していた、志位元少佐の記事を書いた。これはスクープではなかったが、読売が一番詳細、正確な記事だった。

不覚の涙

だが、そのあとがいけない。感じとしては誰かを逮捕しているようなのだが、全くつかめない。私用を抱えていた私は、公休日でもあったので、取材をいいかげんで投げ出してしまった。そして、出かけようとした時、一人の親しいニュース・ソースに出会った。

『お忙しそうにどちらへ?』

『イヤ、ちょっと、なに……』

『アア、目黒ですか』

彼は一人で納得してうなずいた。

p56上 わが名は「悪徳記者」 反動読売の反動記者

p56上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。
p56上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。

私の仕えた初代社会部長小川清はすでに社を去り、宮本太郎次長はアカハタに転じ、入社当時の竹内四郎筆頭次長(現報知社長)が社会部長に、森村正平新品次長(現報知編集局長)が筆頭次長になっていた。昭和二十二年秋ごろのことだった。

過去のない男・王長徳

帰り新参の私を、この両氏ともよく覚えていて下さって、「シベリア印象記」という、生れてはじめての署名原稿を、一枚ペラの新聞の社会面の三分の二を埋めて書かせて下さった。この記事はいわゆる抑留記ではなく、新聞記者のみたシベリア紀行だった。その日の記事審査委員会日報は、私の処女作品をほめてくれたのである。

この記事に対して、当時のソ連代表部キスレンコ少将は、アカハタはじめ左翼系新聞記者を招いて、「悪質な反ソ宣伝だ」と、声明するほどの反響だったが、やがて、サツ(警察)廻りで上野署、浅草署方面を担当した私は、シベリア復員者の日共党本部訪問のトラブルを、〝代々木詣り〟としてスクープして、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。

私は日共がニュースの中心であったころは、日共担当の記者であり、旧軍人を含んだ右翼も手がけていた。それが、日本の独立する昭和二十七年ごろからは、外国人関係をも持つようになってきた。つまり警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。

赤い広場―霞ヶ関 p018-019 ソ連代表部が動きはじめた

赤い広場ー霞ヶ関 18-19ページ 死体発見から1カ月半もたってからソ連代表部が動き始めた。
赤い広場ー霞ヶ関 p.018-019 The Soviet delegation began to move.

死体の取扱いは行路病死者に準ずる』ということになった。高橋事務官は稚内市役所、札帆の道庁などに、政府としては知らん頭をしているつもりだから、そのつもりで……と、念を押して歩いた。

死体は市役所の手でダビに付され、遺品は身許不明者のものとして、遣骨とともに保管された。こうして、事件は一まず落着し、死体にまつわる疑問と矛盾も煙となって立昇ってしまった。

ところが、死体発見から約一ヶ月半もたった、七月中句になって、ソ連代表部が動きはじめた。『かくかくしかじかの者が行方不明となっているが、その死体が漂着していないか』という間合せが外務省へ行なわれた。

もちろん外務省では、最初の方針通り知らぬ存ぜぬと突っぱねた。それではと、代表部からは領事部長のアナトリー・フヨードロヴィッチ・コテリニコフ二等書記官、セルゲイ・イワノヴィッチ・ジュージャ三等書記官の両氏が、七月二十二日東京発列車で札幌へと出発した。

二人は札幌で道庁を訪れ、稚内市と知ってさらに稚内に向った。稚内市役所を訪れた両氏は住所姓名不詳の行路病死者として片付けられたソ連兵の遺骨、遣品を受取ったのち、稚内市で漁民たちとパーティを開いたりした。漁船捕獲事件などで、神経過敏になっていた漁民たちの一部には歓迎の意を表するものもあり、宿舍への日共党員その他訪問客も多数あった。

こうして二人は七月末には東京へ帰ってきたのであるが、ともかく東京―函館―小樽―札幌―旭川―稚内と北海道を縦断する旅行を行ってきたのだった。

続いて、八月はじめ密入国した関が六日に稚内市で捕われ、九日にはソ連船ラズエズノイ号がだ捕されるなど、事件が最高潮となった八月十二日、コ、ジュ両人は午後三時半横浜出帆のオランダ船ジザダン号で、突如として本国へ帰ってしまったのである。

両人の帰国の状況は全く異例だった。ベリヤ旋風による粛正のための本国召喚だという説もあるが、真相は両人しか知らないであろう。従来元代表部員の帰国は、必らず十名前後以上の人数で行われており、それぞれ帰国すべき妥当な理由―在留資格が与えられず在日猶予期限がきて、退去処分がとられるべき者とか、担当の仕事が閉鎖されて不用となった要員とかーがあった者ばかりであった。また、その出発に当っては盛大な見送りをうけており、いわば正正堂堂たる帰国だったが、コテリニコフ、ジュージャ両氏の場合は、稚内旅行から帰って十日余り、関事件の真只中で、しかも二人限り、見送りとて数えるほどしかいなかった。

両人は三時半の出帆なのに、三時前から船室に姿をかくし、帰国の報が日本の新聞紙上に現れたのは、九月一日だったというほど、隠密裡の帰国だった。当局では初めて首をひねって考えはじめたのである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 眼下の路地で口笛が鳴った

赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 A man appeared, killed his voice and said coldly. "Совершаете самоубийством!(Commit suicide!)"
赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 A man appeared, killed his voice and said coldly. “Совершаете самоубийством!(Commit suicide!)”

ユーリは、はじめのうちには二、三人のソ連人と一緒にやって来たが、一年目頃からは、一人で車を飛ばして、連絡場所にやって来るようになった。

東京における、彼らソ連人の行動は、私にとってなかなか興味深いものであった。(中略)

二月三日の夕暮れどき、当時すでに幡ヶ谷のアパートに転居していた私は、二階の自室で節分の豆撤きしながら、何気なく窓を開けると、眼下の路地で口笛の鳴ったのを聞いた。

ピューッというソ連人独得のあの鋭い口笛だった。誰か連絡に来たのかも知れない、と咄嵯に考えて、私はオーバーを着込んで外へ出た。口笛のした方向に二、三間注意深く歩いて行くと、電柱の陰から一人の男が現われて、私に触れんばかりに近寄り、声を殺して冷たくいった。

『サヴェルシーチェ・サマウビーストヴォ!(自殺しろ)』

その男はそれだけいうと、そのまま甲州街道のほうに去ってしまった。

私はその瞬間、恐怖にとらわれて全身を硬ばらせた。が、その次には無性に癪にさわって、怒りの感情がこみ上ってくるのを覚えた。(中略)

二月四日の夜は都内の旅館に泊った。そして私の考えた結論、それは『私の運命を決めてゆくのはこの私自身だ』という平凡なことであった。五日の朝、私は東京警視庁の石段を登っていった。私の「独相撲」には終止符が打たれたのである。

この手記のうち間題となるのは、〝自殺せよ〟とささやいた男の件りである。ラ氏が失踪してからのち、彼の協力者であった志位氏のもとに、果して誰が何の目的で〝自殺せよ〟とささやく必要があるのであろうか。

抹殺する必要があるなら、ささやくよりも黙って殺すであろうし、脅かせば敵陣営内に逃げこむことは、その後の事実の通り明らかである。志位氏は私のこの疑間に対しても、『自分自身も何のため、このようにささやかれたか分らない』と答えて、その場の状況を、手記の通りに繰返すばかりであった。

捜査当局では、志位氏の供述によって、この〝ささやいた男〟を捜査した。志位氏は、この手記では「一人の男」とのみ書いているが、週刊読売には「一人の見知らぬ男―多分東洋人であったろう―」と書いているし、当局への供述では『最初のレポのジープの運転手だったような気もする』といっている。 そこで、当局では元ソ連代表部に関係のある人物すべてを網羅した、然るべきアルバムをみせて、一人一人の〝面通し〟をしたところ、『これではないか』と、彼が記憶を頼りに指摘した数人の人物は、いずれも当時は日本にいない人物だった。その結果、当局では志位氏の記憶が不正確なのか、或は故意に適当な人物の写真を示したのか、というようなアイマイな結論を出したが、当局もまたこの部分の信ぴょう性について、深い疑問を抱いたままでいる。

赤い広場ー霞ヶ関 p.104-105 「日本人富岡芳子」それが私が発見した女だった

赤い広場ー霞ヶ関 p.104-105 On behalf of the Soviet's spy pilot who had to withdraw after the peace treaty came into force, they were trying to set up a Japanese spy pilot who would take over the work.
赤い広場ー霞ヶ関 p.104-105 On behalf of the Soviet’s spy pilot who had to withdraw after the peace treaty came into force, they were trying to set up a Japanese spy pilot who would take over the work.

二十八年四月ごろから、三鷹市下連雀の自宅でオールウェイヴ・ラジオによりソ連からの秘密暗号情報を受信、暗号解読練習をした。さらにこの秘密通信文を埋め、その通信文をソ連側に送信する送信技術をおさめた。このほか在日残存秘密特務情報網のメンバーの人相確認を行った。

この間協力者二名に対する報酬を含めて一年四千ドル(百四十四万円)を一括受領した。

▽ドル入手関係=①二十七年二月ソ連代表部で、コチエリニコフ氏から四千ドルを受取った。②被告はこのドルを二十七年四月、日本人富岡芳子を介し、昌栄貿易重役遊佐上治氏(元外務省経済局動務)らに売却、自己または他人の名儀で、興亜土地合資会社(代表者佐藤直氏)へ融資、あるいは山一証券など数社に株式売買資金として費消。

▽秘密文書関係=被告は二十七年十月、二回にわたりクリッチンに職務上の秘密文書、経済第二課企画(国際経済機関二十六年度版)上下を手渡した。

つまりこの冒頭陳述のドル入手関係に書かれている「日本人富岡芳子を介し」という、富岡芳子こそ私の発見した彼女だったのである。そして彼女によって、二十九年八月二十一日兵庫県警察本部が摘発した「英印人ヤミドル団」とスパイ網とが結ばれていたのであった。

当局の捜査は高毛礼氏からスパイ資金を受取るはずの日本人スパイ群と、高毛礼氏と同様に他のソ連人からバトンを受けついだ他の〝地下代表部員〟およびヤミドル団との背後関係の三点に向けられていたのであった。

では、ここで高毛礼氏捜査の経過をみてみよう。さる二十七年ごろからラ氏にかかる刑特法違反容疑事件の捜査を行っていた同課では、ソ連代表部員の行動調査を始めていたが、アナトリイ・F・コテリニコフ領事とL・A・ポポフ経済官(実際は政治部少佐と信じられている)両氏の乗用車を尾行したところ、三鷹市下連雀付近まで月に数回でかけるという事実をつかみ付近一帯を捜査した結果、高毛礼氏宅があるのを発見、一応チェックしていた。

ところが二十九年八月上旬、山本課長がワシントンでラ氏から、ポポフ氏担当の日本人スパイの話をきき取り、これを経歴その他に前記尾行の線がピタリ符合する高毛礼氏と判断した。その結果、約二週間の尾行から富岡氏ら四名の女性を発見したのである。

逮捕に向ったとき、同氏は『一切を死によって清算したい』旨の遣書を残して、ヌレ手拭で自殺を図ったほどで、それだけに重要な人物として厳しい追及をうけたところ、取調べ官宛に手記を書いて一切を自供したものである。

ここで当局は始めて、ソ連側では講和条約の発効によって、代表部は引揚げざるを得ないという情勢判断をしており、そのため、ソ連人に代るスパイ操縦者の日本人、いうなれば〝地下代表部員〟の設置を行っていたという、重大な事実を握ったのであった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.128-129 日本人スパイとのレポが目的か

赤い広場ー霞ヶ関 p.128-129 International conferences, sports, art are 100% abused for re-entry of former Soviet representatives to Japan.
赤い広場ー霞ヶ関 p.128-129 International conferences, sports, art are 100% abused for re-entry of former Soviet representatives to Japan.

占領中はソ連代表部からマッカーサー司令部に対して、〝馬鈴薯二トンと大佐一人〟を東京に運ぶために、ソ連輸送機の東京飛来の許可を求めればよかったが、講和発効後は元代表部となり追立てを喰って、ソ連人の新規正式入国は全く認められなくなった。

二十九年夏には、外務省に対し代表部から『ずっと独身で不自由なサビシイ暮しをしている者が何人もいる。これでは人道問題だから何とか考慮を願いたい』と、家族の入国許可を求めてきたが、外務省では『それではこの機会に本国へお帰りになっては』と断られた(同年十一月三日付朝日)ほどで、あの手この手の合法的日本入国を図り出した。それが国際会議であり、日ソ貿易であり、スポーツであり、芸術であるわけだ。

このソ連人の出入国の様子を眺めてみると、国交のない日ソ間でも相当ひんばんな出入りのあることが分る。代表部員がつぎつぎに帰国してゆくということは、その従来の業務が日本人によって代行されているとみられることである。これはしばしば指摘したようにラ事件の高毛礼被告がコテリニコフ、ポポフ両氏の業務の移管を命ぜられ、四千ドルという大金を預けられたことでも明らかである。まさに地下代表部員である。

ところが在日ソ連人が帰国することは容易だが、入国することは正式には拒否されている。

帰国者が日本に関する報告書やら、資料やらを持帰ることはできるが、新たに資料や指令を持込むことはできない。外交関係のある二国間でさえ、そのために伝書使を送るほどである。

これには国際会議やスポーツ、芸術などが百%利用されている。スケート選手団のロザノフ、水利会議にはマミン(通商官)イワノフ(政治部中佐)といった元代表部員がおり、電力小委にはマミン、アデルハエフと元代表部員二人を送りこみ、このさいには御念が入ったことには、後から来た鉄道小委のメムバーとして二人をスリ替えて、期限ギリギリまで滞日させるというほどであった。さらにオイストラッフのマネージャー、カサドキンなど、当局が確認しただけでも元ソ連代表部員で、帰国後に再入国したものは、全部で十名にも及んでいる。

当局がこれらの新入国者に注目しだしたのは、何といってもラストヴォロフ氏失踪のキッカケとなった、ロザノフ氏のスケート役員としての偽装入国で、それ以後神経をとがらしてみると、前記のように元代表部の部員か、シベリヤの日本人収容所勤務の経歴がある人物が、必らず何らかの名儀で一行に加わっていることを発見したのであった。

これらの人物がオイストラッフ氏における、カサドキン氏のように、伝書使であるか。またはさらに別の任務を持っているのかは分らないが、当局筋では高毛礼被告の自供内容のように′〝地下代表部員〟といった秘密組織との連絡だとみている。

赤い広場ー霞ヶ関 p.130-131 ソ連代表部とは総合スパイ組織

赤い広場ー霞ヶ関 p.130-131 The Soviet representative's five organizations, the Political Department (Ministry of Internal Affairs, MVD), the Secretariat (Red Army), the Culture Department (TASS News Agency), the Trade Representative (Ministry of Trade), and the Consular Department (Ministry of Foreign Affairs) each have a spy network.
赤い広場ー霞ヶ関 p.130-131 The Soviet representative’s five organizations, the Political Department (Ministry of Internal Affairs, MVD), the Secretariat (Red Army), the Culture Department (TASS News Agency), the Trade Representative (Ministry of Trade), and the Consular Department (Ministry of Foreign Affairs) each have a spy network.

ここで、ラストヴォロフ氏の活躍中だったころの、元代表部の組織とその諜報網の実状をみよう。この組織がそれぞれにスパイ網を持っており、政治部(内務省)、書記室(赤軍)、文化部(タス通信)、通商代表部(貿易省)、領事部(外務省)の五系統がある。これらのスパイ網の最高責任者は各部首席が担当しているが、主に内務省はラストヴォロフ、貿易省はサザノフ(註ラ氏の失踪目撃者)両氏が担当している。

さらにこのほか代表部自体のものとしてのスパイ線があり、①日共およびシンパ団体、②ソ連居留民(各国籍白系露人、無国籍人、ユダヤ系米国籍人を含む)、③商社(米系、日系など各国系)、④ソ連引揚者(三橋事件などのいわゆる幻兵団)、⑤パブリチェフ代表直轄線の五線である。ラ氏はこの第五番目を担当している直接責任者であり、しかも政治部員としての政治謀略ではヤミ、ニセドルによる経済惑乱と日ソ貿易とを担当していたとみられている。

このうち①の「日共およびシンパ団体」については、前述した津村氏、ロザノフ氏のルートなどでも明らかだが、次のように日共の組織を通じてモスクワ放送のことなどまで、調べていた事実もある。

緊急依賴、M放送について

(一)今度変更された波長で聞えるかどうか。(二)聴取者の階層はどんなものか。(三)階層によって高価、安価と買う機械が違っているはずだが、M放送を聞取る事の出来る最も安い機械は何型何球なのか(各地区毎の差)。(四)放送の内容が判るかどうか。1言葉は使いよいか。2直訳的ではないか、日本人向きの内容か否か。3どういう内容を希望するか。以上について至急報告せられたい。(日共指令文書写)

②の「ソ連居留民」については、文京区駒込上富士前町四四「在日ソ連人居留民団」がその本拠である。ここには居留民団の事務所と娯楽機関の「ソ連人クラブ」とがある。

二十八年十二月九日赤羽の北鮮系アジト平和寮手入れのさい発見された保安隊軍事フィルム事件なども、同寮居住のソ連国籍人コンスタンチン・ザカロフが居留民団のアクチヴであり、その母マリア(父は元代表部通訳の日本人)もクラブ機関紙の編集員だっただけに、当局ではその間の経緯をしきりに追及したほどだった。

③の「商社」については、日ソ貿易商社も利用されているだろうが外国商社の方が面白い。これは〝東京租界〟そのものであるので、②のユダヤ系米国籍人や、ユダヤ人クラブ、さらにソ連系に対抗する白露同盟などとともに、続刊に詳述しよう。

④の「幻兵団」についてはすでに詳述した通りであり、⑤の「パブリチェフ直轄線」とはラ氏の線でもあるが、一言にしていえば内務省と赤軍の線である。

代表部の組織自体がそれぞれにスパイ網を持っているが、それはそれぞれにダブっているこ ともあり、内務省と赤軍の線とを除いてはいずれも比較的弱い。

赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 赤軍の線はまだ潜在化している

赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 Investigator officials leaked, “We are no longer interested in MVD(Ministry of Internal Affairs) spies. Now we are investigating the actual situation of the 4th section of the Red Army”.
赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 Investigator officials leaked, “We are no longer interested in MVD(Ministry of Internal Affairs) spies. Now we are investigating the actual situation of the 4th section of the Red Army”.

代表部の組織自体がそれぞれにスパイ網を持っているが、それはそれぞれにダブっているこ

ともあり、内務省と赤軍の線とを除いてはいずれも比較的弱い。すると、何といっても中心になるのはこの二つの線であるが、ここに注目されなければならないのは、ラ事件をはじめとして幻兵団などでも、現在までに顕在化されたのはいずれも内務省系統の事件ばかりであるということである。

ラ事件捜査当局の某幹部は『われわれが問題とするのはもはや内務省系スパイではない。いまや赤軍第四課系スパイ線の実態究明にある』と、洩らしたといわれているが、まったくその通りであろう。

私がここに収録した幻兵団の実例の幾つかが、いずれも内務省系ばかりである。日本人収容所のうち、赤軍直轄の収容所があったことはすでに述べたが、これらの赤軍労働大隊でスパイ誓約をした引揚者で、当局にチェックされた人名はまだそう多くない。

NYKビルがフェーズⅡで最終的にチェックした人名は一万名といわれている。この中には私のように誓約はしたが、連絡のない半端人足は含まれているかいないかは知り得ないが、連絡のあった者だけとすれば大変な数である。

またラ氏はワシントンに於て米当局に対して、『ソ連代表部が使用していたソ連引揚者のスパイは約二百五十名である』と述べたといわれる。幻兵団や元駐ソ大使館グループ、または高

毛礼氏のように、さらにまた、東京外語大の石山正三氏のように在ソ経歴を持たなくとも、ラ氏にコネクションをつけられたものもいる。

そしてまた、コテリニコフ・ポポフ――高毛礼ラインの手先とみられる、銀座某ビヤホール経営者の白系露人のように、〝地下代表部員〟の間接的スパイもいる。

従ってソ連スパイ網に躍る人物は、本人が意識するとしないとに拘らず(例えば前記石山教授などは、志位元少佐がソ連兵学の研究のため、赤軍参謀本部関係の第二次大戦資料などを、ラ氏を通じて得ていたように、ソ連文献入手のため知らずにラ氏に利用されていたにすぎないといわれている)相当な数と種類とに上っていることは事実である。

だが、赤軍の線は捜査の手がそこまで伸びているのにまだ潜在化している。前記ビヤホールの白系露人などは、数年前から要注意人物としてマークされていながら、どの系統なのか全く分らず捜査が一頓坐していたもので、今度の高毛礼ケースから明らかになったものであった。

当局ではいまさらのように巧妙なその組織に驚いており、過去九年間における延数百名にも及ぶ在日ソ連代表部員の都内行動記録を再検討している。これは他の〝地下代表部員〟の摘発であると同時に、捜査は元在日総領事、中共軍政治顧問の経歴をもちながら「雇員」の資格だったシバエフ政治部大佐以下、「経済官」のポポフ同少佐、「運転手」のグリシーノフ同大尉

らの内務省系から、ザメンチョーフ赤軍少佐らの線へとのびていることである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.168-169 シベリヤ・オルグ団、土井祐信、田辺稔、清水達夫、沢準二

赤い広場ー霞ヶ関 p.168-169 The spies and organizers that the Soviet Union has educated and trained Japanese POWs in Siberia are now performing their duties.
赤い広場ー霞ヶ関 p.168-169 The spies and organizers that the Soviet Union has educated and trained Japanese POWs in Siberia are now performing their duties.

〝ナホトカ天皇〟津村謙二氏らのナホトカ・グループが帰国して組織した「ソ連帰還者生活擁護同盟」(ソ帰同)が、「日本帰還者同盟」(日帰同)と変り、二十四年十一月、日本新聞グル

ープが帰国するにおよび、二十五年はじめに組織の改正が行われ、同年春の徳田要請問題にからんで、津村氏らの一派が粛清されたことはすでに述べた。

そして二十五年五月、客観情勢の変化によりとして(ソ連代表部の指示で)発展的解消をとげて日ソ親善協会内へ吸収された。二十六年春ごろから、再編成が行われて「ソ連帰還者友の会」として再び表面に浮び上ってきた。いわゆる第二期具体化の段階と符節を合している。文化工作隊としての「楽団カチューシャ」はもちろん存続していた。

友の会の性格について、当局では「一般工作のアクチィヴの養成」とみているようである。そして幹部はオルグとなって独立任務を持ち、それぞれの分野で働らいている。

ここに紹介した何人かのオルグがそれである。政治工作は国民会議のオルガナイザー土井祐信氏がそれであり、経済工作は貿易促進会の田辺稔氏がそれであり、文化宣伝工作は日ソ親善の清水達夫、楽団カチューシャの沢準二両氏がそれである。

いずれも日帰同時代の幹部であることから、ソ帰同—日帰同—発展的解消—友の会という経過は、一貫して流れているソ連の対日政策の一つの現れとみることができよう。

ドムニッキー氏が、日ソ貿易で損をしたという商社に向って、こういったことがある。

『その商社の資本や系列や、歴史やその他の一切の条件は問題ではない。たゞ、ソ連貿易の実績のつみ重ねだけが問題である』

日ソ貿易は三十六社が加入している。しかし中心になっているのは五社協定を結んだ、進展実業、大倉商事、永和商事、相互貿易、東邦物産の五社である。老舖で資本力の大きい商社には負担でないことも、新興の商社には死命をも制しかねない条件となる。そのような事象に対していったド氏の言葉である。

進展実業のオイストラッフ氏招待も「実績のつみ重ね」の一つであろう。「実績のつみ重ね」こそ常に一貫して流れているソ連の対日政策の実態である。日ソ交流も、日ソ交易もすべてそうである。

シベリヤの「人間変革」の実績のつみ重ねが、いま友の会を中心とするシベリヤ・オルグ団となって成果をあげつつあるのだ。

ソ連が、日本人に対して行った「技術教育」の成果であるスパイは、その殆どをバクロされて、失敗したかに見える。しかし、その「思想教育」の成果であるオルグは、かくの如く沈潜十年を経て、今ようやくその任務を果しつつある。あの何万というソ連謳歌者のうち、今ここにその名を留めているのは、まさに十指にもみたない人々である。失敗したかにみえるスパイとて同じであろう。——ここにソ連の暗さがある。

赤い広場ー霞ヶ関 p.186-187 風見章とシベリヤ・オルグたち

赤い広場ー霞ヶ関 p.186-187 Fusanosuke Kuhara is a Japanese who boasts that "Stalin and I can talk to each other without hesitation". Kuhara was elected chairman of the Japan-Soviet diplomatic conference.
赤い広場ー霞ヶ関 p.186-187 Fusanosuke Kuhara is a Japanese who boasts that “Stalin and I can talk to each other without hesitation”. Kuhara was elected chairman of the Japan-Soviet diplomatic conference.

二十七年一月二十九日、近衛内閣書記官長だった風見章氏の肝入りで、銀座の交詢社に日ソ経済会議が開かれたのをヤマとして、日ソ貿易促進会が生れた。その事務局長には、シベリヤ・オルグ田辺稔氏が就任した。

 経済攻勢が成果を納めるや、これは徐々に政治攻勢へと変ってゆく。二十八年五月、風見氏の主催で、日ソ国交調整準備会が設けられ、これは二十九年四月十日、日中日ソ国交回復国民会議となって発足し、事務総長として馬島氏を戴いたが、事務局長はこれもシベリヤ・オルグの土井祐信氏である。

 風見氏といい、馬島氏といい、これらの人々は、あるシベリヤ・オルグにいわせると、失礼ながらオポチュニストであるという。オルグからみて担ぎやすい、言いかえれば使いやすいらしいのである。しかし、いわば〝赤いフンイキ〟を持った人たちである。国民を引っ張ってゆくには適当ではない。

 そこで、久原氏の引出し工作となった。久原氏は松岡洋右とともに「スターリンとはオレ、キサマの仲」と称する日本人である。二月十一日、久原氏は日ソ国交会議会長に選任されたのである。

ここで、一応交渉が始まるまでの経過をみてみよう。

▽二十九年
十二月十一日  重光外相の「中ソとの国交回復を望む」声明
十二月十六日  モロトフ外相の「ソ連政府に用意あり」声明
十二月二十七日 共同藤田記者、代表部に招致さる

▽三十年
一月十一日   鳩山「国交調整」車中談
一月二十五日  鳩山・ドムニッキー会談
一月三十日   モスクワ放送、ド書簡を確認、交渉地として東京かモスクワを提案、外務省もまたド書簡を発表
一月三十一日  ソボレフ国連ソ連代表より「ド書簡が正式文書なり」との回答が、沢田国連大使へあった
二月一日    沢田大使、交渉地としてニューヨーク案をソボレフ大使に申入れ
二月四日    政府、交渉開始を閣議決定
二月五日    沢田大使、口上書をソボレフ大使に手交
二月七日    鳩山首相、九州の車中談で「交渉地はモスクワでも良い」と語る
二月八日    モロトフ外相、ソ連最高会議で「成功期待」を演説