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新宿慕情 p.026-027 部屋の女主人の名前と年齢が明記されていた

新宿慕情 p.026-027 新宿御苑に面した、とある木造・兵隊長屋風のアパートで、オヤジのこない日のオメカケさんと…。
新宿慕情 p.026-027 新宿御苑に面した、とある木造・兵隊長屋風のアパートで、オヤジのこない日のオメカケさんと…。

パンパンと呼ばれる職業婦人について、同僚たちは、いろいろな忠告をしてくれた。
つまり、遊郭では、その店が客の〈生命・財産〉の保証をしてくれるのに対し、パンパンはその意味では〝危険〟なのだが、遊郭のオ女郎サンが、経験豊かなプロフェッショナルなのに比べ

て、パンパンの場合には、アマチュアリズムの可能性があるということだった。

私は、〈生命の危険〉に対する予防手段を講じて、ひとりのパンパンを買った。とある旅館に入って考えたことは、忠告の第二項〈財産の危険〉である。しかし、これとて、古来あったもので、いうなれば〝枕さがし〟である。

背広を寝巻に着換えた私は、ハンガーに吊した衣類を、帳場に預けることを思いついた。早速キシむ階段をおりて、帳場のオッさんに、その旨を話しているところに、すでに寝巻を着た女性が、私を押しのけるようにして、帳場に入ってきた。

「オジさん。これ預かって……」

聞き覚えのある声に、その女を見ると、ナント、私の相方であるパンパン嬢ではないか!

彼女が、〝預かって〟と差し出していた品物が、私と同じように、ハンガーに吊した服とハンドバッグだった——つまり、彼女も、〈財産の危険〉を感じて私と同じように、衣類を持ってウラ階段をおり、帳場でハチ合わせをした、という次第であった。

リンタクくんについても、一度だけの経験がある——酔余、いまの三光町交差点あたりで声をかけられた。

「ダンナ! イイ子がいますぜ、オメカケさんですぜ。きょうはオヤジのこない日なんで……」

このようなキャッチ・フレーズに、私は、すぐノッて、乗ったのである。リンタク屋は、二丁目の対岸、いまのラシントンパレスよりも、もうすこし三丁目寄り、千鳥街のあたりのウラ、新

宿御苑に面した付近の、とある木造・兵隊長屋風のアパートに、私を案内していった。

それから以後のことは、泥酔していて、正確な記憶がない。ただ、翌日のひる前ごろになって、ノドの渇きに、私は目を覚ました。

見ると、四畳半のアパートで私は寝ている。枕はあったが、女の姿はなく、私は、前夜の記憶をたどって、リンタクのことを思い出した。……そして、〝オメカケさん〟という、魅惑的な言葉までも……。

確かにその部屋には〈生活〉があった。しかし、〝オヤジのこない日のオメカケさん〟という感じではなくて、〈生活のニオイ〉が強すぎた。

私は、起き上がって、部屋の一隅の流しで、水をゴクゴクと飲んだ。使ったコップをもとに戻そうとして、水屋(食器棚)を見ると、米穀通帳があるではないか!

「何野何子・四十五歳」と、そこには、この部屋の女主人の名前と年齢が明記されていた。私は慄然とした。

部屋の家具什器と、女の年齢とから、やがて顔を見せるであろう〝オメカケさん〟が、シラフの日中には、〝正視〟できない人物であろうことが、容易に想像されたからである。

……果たせるかな、野菜の買い物を抱えて、帰ってきたその人は、私のほうが、サオ代をタップリと頂戴せねばならない女性であった。

二十代の美青年にタンノーしたのか、「おひるをご馳走するから……」というサービスを、固

辞して私は出ていった。

新宿慕情 p.028-029 青線区域に遊歩道 新宿遊郭は二丁目

〈青線区域〉というのは旧遊郭の〈赤線〉に対する言葉で、三十二年ごろの売春防止法施行と同時に消えた。
新宿慕情 p.028-029 〈青線区域〉というのは旧遊郭の〈赤線〉に対する言葉で、三十二年ごろの売春防止法施行と同時に消えた。

二十代の美青年にタンノーしたのか、「おひるをご馳走するから……」というサービスを、固

辞して私は出ていった。

その笑顔から察するに、多分私は、肌を合わせたに違いなかった——今に至るまでも、私が経験した〈最高年齢〉記録を、この新宿のリンタクが打ち樹ててくれたのだった。

ロマンの原点二丁目

むかしの青線に遊歩道

いまの靖国通り、新宿アド・ホックビルの真向かいから明治通りの新田裏(なんと古い地名であろうか。東京屈指の盛り場である新宿に、こんな〝新田〟=しんでん=裏という名前が残っているのだ)にいたる間、まるで武蔵野を想わせる散歩道が数百メートルもある。

これは、東大久保から抜弁天経由で飯田橋にいたる旧都電の線路跡(軌道敷)だ。

新宿の表通りから都電が消え、次いで、このルートも消えた。新田裏から抜弁天にいたる間は裏通りを走っていたので、一方通行の道路となったが、両側の家は、みな背中をさらけ出すハメになったが、それなりに改造されて、それほどの醜さは表われていない。

こちらは、しもた家だからまだ良い。しかし、この散歩道に変貌した部分は、両側とも飲食店

しかも、片側はいわゆる青線区域だったから、なんとも汚らしい。

相当な経費をかけたのだろうが、この跡地を払い下げたりせずに、樹をたくさん植えこんで、両側の汚い部分に目隠しをして散歩道にしたのは、グッド・アイデアであった。

雨の降る日など、石ダタミの水たまりに映える、傘の女性の姿などは、夜のわい雑さを忘れさせる風情がある。

この〈青線区域〉というのは旧遊廓の〈赤線〉に対する言葉で、警察の取り締まり上から、赤青の色鉛筆で、地図にしるしをつけたことから出た、といわれている。

三十二年ごろの、売春防止法施行と同時に消えた、それこそオールドファンには懐かしい言葉である。

某月某夜、作家の川内康範氏を囲んで、数人で飲んでいた時、談たまたま、むかしの新宿遊廓に及んだ。いわゆる二丁目、である。

「むかしの新宿、といえば、二丁目にステキな子がいてネ……」

出版社の社長であるS氏が、身体を乗り出して、ホステスたちの顔を見まわしながら、話しはじめた。

大正二ケタたちは

「シヅエという、沖縄出身の、髪の毛の長い妓でネ。これがまた、〝名器〟でして……。心根と

いい、いまだに忘れられない。だから、私は、シヅエという名の女と、髪の毛の長い娘が大好きでしてネ」