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編集長ひとり語り第26回 アメパンという言葉について

編集長ひとり語り第26回 アメパンという言葉について 平成11年(1999)8月25日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 1959)
編集長ひとり語り第26回 アメパンという言葉について 平成11年(1999)8月25日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 1959)

■□■アメパンという言葉について■□■第26回■□■ 平成11年(1999)8月25日

フト、50年も前のことを思い出した。いまの読者には、想像もつかない時代と現象は、やはり、興味のあることではないだろうか。

50年前といえば、昭和24年——昭和22年10月に、2年にわたるシベリア捕虜から生還、その年の11月には、読売新聞社社会部記者に、復職していた。23年早春には、サツ廻り(警察署担当)として、上野署、浅草署を受け持っていた。上野署が中心だった。

というのも、そのころは上野駅とその地下道の時代だったからである。家出少年と家なき児たち。子供ばかりか、女も、大人の男も、上野を目差して集まってくる。上野に行けば、なんとか食べ物にありつけるのだ。そして同時に犯罪の温床でもあった。

まだ“女郎屋”とも呼ばれた売春業者の「遊廓」が、公然と営業していた。日本で売春防止法が成立して、施行されたのは、昭和33年からである。それまでは、売春は公然たる女性の職業だったのだ。警察が地図に赤線で囲ったのが「赤線」で、ここでは週1回“検梅(けんばい)”という、性病検査があった。伝統的な遊廓地帯を赤線と呼んでいた。それに対して青線で示したのが「青線」で、ここは非公然売春地帯だったから、検梅はなかった。

赤線、青線ともに業者がいて、前貸金で女性を束縛していたから、当然の結果として、自主売春の女性たちも現れた。これらを総称して「パンパン」といった。この語源には諸説があるが、占領軍である米兵たちが、性行為の音声的表現として、両手でパンパンと音を発して、セックスを求めたからというのが妥当であろう。

このパンパンたちも3種に分類されていた。日本人専門と米兵専門、さらにどちらでもOKというもの。米兵専門では、白人専門と黒人専門、さらにどちらでも、というものがあった。上野駅周辺は、このパンパンたちのメッカであったから、サツ廻り記者としてはそれらのボス(もちろん女性)たちとは、毎日顔を合わせて、情報源とするのだった。上野駅からスタートしたパンパンたちは、やがて有楽町駅のガード下から新橋へと、ひろがっていった。ことにアメパン(米兵専門パンパン)は、そちらへ移っていったが、発祥地は上野である。オカマ(ゲイを含む)も上野だ。

赤線、青線は管理売春だから、店の経営者が責任を持つ。遊廓らしい伝統的なしきたりが、彼女たちを縛りつけていたから、衣類や財布の盗難紛失などの不安はなかった。だが、パンパンは街頭での出会いだけだから、旅館やホテルで泊まるとなると、心は安まらないのだ。従ってチョンノマという時間売春が中心になってくる。

ある夜、私は顔見知りのパンパンに、「お茶ッ引き(客なし)で困っている」と頼まれて、同宿するハメになった。浴衣に着替えてから、服や所持品が不安だったので、まとめて宿の帳場に預けに行った。すると裏階段から降りてきた私の相手のパン嬢も、バッグから服のすべてを預けにきて、帳場でバッタリと顔を合わせ、大笑いしてしまったこともある。寝ている間に持ち逃げされる不安が、双方にあったということだ。

アメパンのひとりと話をしていた時、彼女が「ターザン」(同名の米映画があった)という。映画の話かと思ったら、「ツー・サウザンド」(2千円)という売春代金の話だった。日本人専門のパンパンとは言葉も通じるし、日本人同士の習慣も共有できるが、アメパンとなると第一に言葉が通じないし、客の争奪戦もすさまじい。だから、アメパン同士の罵り合いの物凄さは筆舌に尽し難いほどだ。

ある女性が、少年野球の子供たちに対して浴びせかける罵声の物凄さは、その年齢の普通の女性たちが、口にできないような言葉の連発である。私は、その場面のテレビを見ていて、50年も昔の思い出を呼び醒まされたのだった。 平成11年(1999)8月25日

新宿慕情 p.018-019 四つ角を越えるとすぐ遊郭になる

新宿慕情018-019 二幸のオート・マット食堂、中村屋のカリーライスと支那まんじゅう、オリンピックの洋食。伊勢丹までが、カタ気の新宿の街だ。
新宿慕情 p.018-019 二幸のオート・マット食堂、中村屋のカリーライスと支那まんじゅう、オリンピックの洋食。伊勢丹までが、カタ気の新宿の街だ。

いま、日曜日には歩行者天国になる、東口の二幸前から、伊勢丹までの通りに、都電が走っていたことなど、もう、すっかり、記憶から薄れてしまっているが、変わらないのは、駅前にデンと坐っている二幸と、三丁目角の伊勢丹であろう。

途中、右側にある中村屋。すでに、三峰に買収されたオリンピックなども、建物こそ変わったが、場所はそのままだ。

二幸の開店は、多分、昭和七~八年ごろではあるまいか。海の幸・山の幸の「二幸」という、キャッチ・フレーズを憶えている。その地下に、「オート・マット食堂」というのがあって、連れていってもらったのは、小学生のころだ。

国電の切符売り場のような、ガラス張りの窓があって、下端が開いている。出前用の箱みたいに、段がついた棚には、すでに料理された洋食が、一人前ずつ並んでいる。

二幸の〝自動〟食堂

それを眺めて、食べたい料理の窓の前で、コインを投入してハンドルを引くと、ガタンと音がして、棚が一段下がって、料理を取り出せる仕掛けだった。

それを持って、中央のテーブルで食べるのだが、料理は冷たいし、なによりも、ウェイトレスのサービスがないのが、味気ない。物珍しさが、ひと通り行き渡ると、この〈超最新式食堂〉は閑古鳥が啼く始末。

そうであろうとも、米国直輸入を謳ったのだが、当時は、人手も十分、あり余るほどだったし、第一、デパートの食堂というのが、第一級のレジャー施設だったのだ。それだからこそ、洋食を食べるには、デパートに行く時代だから、味気ないセルフサービスなど、クソ食らえだった。

この〝二幸の目玉〟食堂は、間もなく、無くなってしまったと思った。

そこにゆくと、〈中村屋のカリーライス〉と、〈支那まんじゅう〉とは、まだ、洋食が珍しくて、♪きょうもコロッケ、あすもコロッケ……の歌が流行したのでもわかるように、大人気であった。

私が中学生のころで、肉まんあんまん各一個のセットで、一皿十銭(肉六銭、あん四銭)と憶えている。昼食として、いまのラーメンほどの人気だった。

その向かいのオリンピックもまた、洋食屋の雄であった。手軽に、学生にでも食べられる洋食屋は、オリンピック、森キャン(森永キャンデーストア)、明菓(明治製菓売店)の、三大チェーンストアであった。

戦後、いく度か、オリンピックに入ってみたが、新宿、銀座などの店で、いわゆる〝洋食〟類がマズい。むかし懐かしさのあまり、入って食べてみるのだが、もう、まったく救い難かった。

同じように、森キャン、明菓ともに、〝味の信用〟は、昔日のおもかげはなかった。これら三店のウェイトレスには、たがいに美人が、ケンを競い合っていた。制服姿がサッソウとしていて学生たちの憧れの的だったのに……。池袋の明菓には、日大芸術科に進んでからも、良く行ったが、当時の映画の題名から、〝フランス座〟と呼んでいた美人がいたほどだった。

伊勢丹までが、カタ気の新宿の街だ。というのは、その四つ角を越えると、すぐ、遊郭になるからだ。

新宿慕情 p.024-025 ととやの初代マダムが織田作・夫人の昭子さん

新宿慕情 p.024-025 織田作・夫人の昭子さん、ドレスデン、プロイセン、田辺茂一、池島信平、扇谷正造、中野好夫、相良守峰、時枝誠記…。
新宿慕情 p.024-025 織田作・夫人の昭子さん、ドレスデン、プロイセン、田辺茂一、池島信平、扇谷正造、中野好夫、相良守峰、時枝誠記…。

しかし、この中央口付近のハモニカ横丁という、飲み屋街が〈新宿女給〉の発生源になったことは確かだ。
その奥の突き当たり、いまの中村屋の、鈴屋の並びにあるティー・ルームあたりに、ととやホテルというのがあり、その一階だったか、別棟だったか忘れたが、ととやというバーがあった。

文人、墨客、悪童連

横丁の途中には「居座古座」だとか、「てんやわん屋」などといった、同じような店もあったが、これらが、〝中央線〟派の文人、墨客、先生、記者などのタマリ場になった。

その中心、ととやの初代マダム(当時は、ママではなく、マダムだった)が、織田作・夫人の昭子さんだ。そして、その著『マダム』が、〈新宿女給〉の発生について詳しい。

そして、戦災の復興が進むにつれて、「ドレスデン」「プロイセン」などといった、新宿の正統派バーが、本格的な建物で現われてくるのだが、私など、この二店など、一、二度しか行ったことがないので(しかも、大先輩のお伴で)、語るのはその任ではない。

場所も、せいぜい二幸ウラまでで、まだ、靖国通りも、現在のように整備されておらず、まして、歌舞伎町など、盛り場の態をなしていなかった。

ハモニカ横丁から二幸ウラにかけて、炭屋のセガレ田辺茂一、牛乳屋の息子の池島信平、それに、トロッコ記者の扇谷正造といった悪童連が、中野好夫、相良守峰、時枝誠記といったPTAといっしょになって、客とともに呑み、怒り、泣き、唱っては、文学を論じ、映画を語る、〈新宿女給〉の育成に、一ぴの力をいたした、ものらしい。

銀座とは違って、独特の雰囲気を持つ、〈新宿女給〉たちも、歌舞伎町が栄え、そのウラ側の〝サカサ・クラゲ〟旅館街を浸蝕して、東大久保一帯にまでネオン街が広がってしまった現在で

は、もはや、ギンザ・ホステスと、なんら変わりのない連中ばかりになってしまった。

私が、シベリアから帰って、直ちに書き上げた『シベリア印象記』は、当時の一枚ペラ朝刊だけ、という時代ながら、二面の大半のスペースを費やして、トップ記事になった——私の、読売新聞での、初めての署名記事であった。

しかも、この記事に対して、米英ソ華の、四連合国で組織していた対日理事会の、駐日ソ連代表部首席のデレビヤンコ中将が、記者会見して反論し、それを、日共機関紙・赤旗が、大きく報道するなど、なかなかの評判であった。

私は、〝シベリア呆け〟していない、と判断されて、すぐに地下鉄沿線である、日本橋、上野、浅草のサツまわりに出された。だから、戦後の上野(ノガミ)については語れるのだが、残念なことには、昭和二十年代の新宿については、あまり、正確な記憶がない。

しかし、異邦人よろしく、当時の流行語であったリンタクとパンパンについての、新宿における〈知的好奇心〉についてはエピソードを持っている。

なんにも保証なし

パンパンと呼ばれる職業婦人について、同僚たちは、いろいろな忠告をしてくれた。

つまり、遊郭では、その店が客の〈生命・財産〉の保証をしてくれるのに対し、パンパンはその意味では〝危険〟なのだが、遊郭のオ女郎サンが、経験豊かなプロフェッショナルなのに比べ

て、パンパンの場合には、アマチュアリズムの可能性があるということだった。

新宿慕情 p.026-027 部屋の女主人の名前と年齢が明記されていた

新宿慕情 p.026-027 新宿御苑に面した、とある木造・兵隊長屋風のアパートで、オヤジのこない日のオメカケさんと…。
新宿慕情 p.026-027 新宿御苑に面した、とある木造・兵隊長屋風のアパートで、オヤジのこない日のオメカケさんと…。

パンパンと呼ばれる職業婦人について、同僚たちは、いろいろな忠告をしてくれた。
つまり、遊郭では、その店が客の〈生命・財産〉の保証をしてくれるのに対し、パンパンはその意味では〝危険〟なのだが、遊郭のオ女郎サンが、経験豊かなプロフェッショナルなのに比べ

て、パンパンの場合には、アマチュアリズムの可能性があるということだった。

私は、〈生命の危険〉に対する予防手段を講じて、ひとりのパンパンを買った。とある旅館に入って考えたことは、忠告の第二項〈財産の危険〉である。しかし、これとて、古来あったもので、いうなれば〝枕さがし〟である。

背広を寝巻に着換えた私は、ハンガーに吊した衣類を、帳場に預けることを思いついた。早速キシむ階段をおりて、帳場のオッさんに、その旨を話しているところに、すでに寝巻を着た女性が、私を押しのけるようにして、帳場に入ってきた。

「オジさん。これ預かって……」

聞き覚えのある声に、その女を見ると、ナント、私の相方であるパンパン嬢ではないか!

彼女が、〝預かって〟と差し出していた品物が、私と同じように、ハンガーに吊した服とハンドバッグだった——つまり、彼女も、〈財産の危険〉を感じて私と同じように、衣類を持ってウラ階段をおり、帳場でハチ合わせをした、という次第であった。

リンタクくんについても、一度だけの経験がある——酔余、いまの三光町交差点あたりで声をかけられた。

「ダンナ! イイ子がいますぜ、オメカケさんですぜ。きょうはオヤジのこない日なんで……」

このようなキャッチ・フレーズに、私は、すぐノッて、乗ったのである。リンタク屋は、二丁目の対岸、いまのラシントンパレスよりも、もうすこし三丁目寄り、千鳥街のあたりのウラ、新

宿御苑に面した付近の、とある木造・兵隊長屋風のアパートに、私を案内していった。

それから以後のことは、泥酔していて、正確な記憶がない。ただ、翌日のひる前ごろになって、ノドの渇きに、私は目を覚ました。

見ると、四畳半のアパートで私は寝ている。枕はあったが、女の姿はなく、私は、前夜の記憶をたどって、リンタクのことを思い出した。……そして、〝オメカケさん〟という、魅惑的な言葉までも……。

確かにその部屋には〈生活〉があった。しかし、〝オヤジのこない日のオメカケさん〟という感じではなくて、〈生活のニオイ〉が強すぎた。

私は、起き上がって、部屋の一隅の流しで、水をゴクゴクと飲んだ。使ったコップをもとに戻そうとして、水屋(食器棚)を見ると、米穀通帳があるではないか!

「何野何子・四十五歳」と、そこには、この部屋の女主人の名前と年齢が明記されていた。私は慄然とした。

部屋の家具什器と、女の年齢とから、やがて顔を見せるであろう〝オメカケさん〟が、シラフの日中には、〝正視〟できない人物であろうことが、容易に想像されたからである。

……果たせるかな、野菜の買い物を抱えて、帰ってきたその人は、私のほうが、サオ代をタップリと頂戴せねばならない女性であった。

二十代の美青年にタンノーしたのか、「おひるをご馳走するから……」というサービスを、固

辞して私は出ていった。

新宿慕情 p.030-031 他の遊廓に比べると新宿には美人が多かった

遊郭、赤線と呼び名は変わっても、初老たちのロマンの原点は、吉原とか洲崎パラダイスとか新宿二丁目とかに根付いている。
新宿慕情 p.030-031 遊郭、赤線と呼び名は変わっても、初老たちのロマンの原点は、吉原とか洲崎パラダイスとか新宿二丁目とかに根付いている。

「シヅエという、沖縄出身の、髪の毛の長い妓でネ。これがまた、〝名器〟でして……。心根と

いい、いまだに忘れられない。だから、私は、シヅエという名の女と、髪の毛の長い娘が大好きでしてネ」

ホステスたちが、ドッと笑った。髪の長いのも、シヅエという名前のも、そこにはいなかったからである。

こう、話がハズみ出すと、同席のだれかれ、大正二ケタたちのみんなが、新宿二丁目の思い出話を語り出す。

「ウンウン、二丁目、なァ……」

康範先生までが、〝骨まで愛した〟過去を懐かしむのだ。

そうして気付いてみると、遊郭、赤線と呼び名は変わっていても、初老たちのロマンが、意外にも、吉原とか洲崎パラダイスとか、新宿二丁目とかに、その原点が根付いているのだ。

それは、マリー・ベル主演の戦前の名画『舞踏会の手帖』と同じように、想い出のなかだけにあるべきなので、よけいに美化され、謳い上げられているからなのであろう。……そして、私にも、〝心のふるさと〟が、そこにはあった。

美人は〝床付け〟悪い

学生時代、はじめてひとりで二丁目に出かけた私は、当時の写真見世(娼妓が、直接、店に出ているのと、顔写真が並べてあるのと、二種類の営業形態があった)で、ひとりの妓に上がった。

もちろん、現実の彼女は、店頭の、修整された写真とは、別人かと見まがうほどであった。

しかし、他の遊廓に比べると新宿には、美人が多かった。そして、美人ほど〝床付け〟が悪いのが通例だった。いうなればジャケンな扱いを受けるのだ。

遊廓の情緒というのは、やはり、吉原を措いて、他では味わえない。大枚をハズんで、本部屋(まわし部屋、割り部屋に対する語)にでも入れば、それこそ、前借金の名義にさせられたであろう、タンスに茶ダンス、長火鉢と、妓の財産が並び、ヤリ手バアさんが、炭火を入れて、鉄ビンにお湯がチンチンとたぎる。

タンスの引き出しから、これも彼女自身の財産目録の第何番目かの、丹前に浴衣を重ねて、風呂にまで入れてくれる。それも、長襦袢の裾をからげて、久米の仙人が、神通力を失ったという白い脛をみせる、艶めかしさで、背中を流してくれるのだ。

いまようトルコ嬢の、ブラジャーにパンティといった、即物主義とは違って、百人一首時代そのままの〝情緒〟である。

妓は、妓夫太郎(呼び込み係の男性)に小銭を渡して、茶めしおでんなどを、夜のうちに買わせておく。朝食の仕度をするわけだ。

「散財をさせてしまったねェ」と、朝帰りを裏口まで送ってきて市電の片道切符を一枚くれる。記憶では、市電は片道七銭で、一系統ならどこまでも乗れた。

ところが、早朝割引というのがあって、朝七時ごろまでに乗ると、往復切符が九銭だ。復の切

符は、一日中通用する。この四銭五厘の切符を、プレゼントしてくれるのだ。

新宿慕情 p.34-035 ふたりの妓は激しいいい争いをはじめた

新宿慕情 p.34-035 同一店での指名変更が許されない、という不文律を思い知らされたのが、廊下で出会った三十女の「アラ、お兄さん!」の一言だった。
新宿慕情 p.34-035 同一店での指名変更が許されない、という不文律を思い知らされたのが、廊下で出会った三十女の「アラ、お兄さん!」の一言だった。

その妓は、私の顔をジッと見つめていたが、スレ違ってから呼び止めた。
「アラ、お兄さん。以前に、私に上がったことがあるでしょ? ……ホラ、やっぱりそうだわ!」

確信にみちたその言葉に、私は、ことの成り行きを予想もできず、妓を見てみると、なんだか知っているようでもある。

「ウン、そうだったっけ?」

〝遊冶郎〟のエチケット

遊びにもしきたり

水商売の世界には、いまにいたるも、いろんな、古い習慣がその世界の秩序維持の必要から受けつがれ、引きつがれているものである。

例えば、クラブだろうが、キャバレーだろうが、同一店での指名ホステスは、「だれそれサンの客」として、厳重に守られている。その指名変更をすると「客を取った、取られた」の内ゲバ騒ぎに発展する。

しかし、赤坂のミカドのような、超大キャバレーが出現してくると、同一店でも、必ずしも客とホステスとが、〝めぐり合う〟とは限らない。キャバレーの場合は、指名料の売り上げだけがホステスの収入源、稼ぎ高の増減を意味するように、ドライなシステムになっているので、必然

的に、店以外での〝付き合い〟と、その清算勘定とで割り切られてくる。だから、指名客の厳守も崩れてきている。

この、同一店での指名変更が許されない、という〝不文律〟を思い知らされたのが、廊下で出会った、三十女の「アラ、お兄さん!」の一言だった。

「そうよ、そうよ。私のお客さんだよ、間違いないわ」

たちまち、ふたりの妓は、激しいいい争いをはじめた。だが私が不用意に洩らした「ウン、そうだったっけ?」という〝証言〟が決め手になって、私が上がった妓はいい負かされてしまう。

初心の私には、なにがなんだかわからないうちに、この論争にピリオドが打たれ、私がいま済ませたばかりの妓は、集まってきた全員に、〝反体制派〟として罵られて、スゴスゴと退散してしまった。それでも、私に対して、恨み言を投げつけるのは忘れなかった。

この騒ぎの原因は、どうやら私の不注意にあるらしいことは理解できた。

私は、この〝老醜〟に拉致されて、彼女の部屋に入れられたのである。そして、この世界では、一軒の店で、一度上がったことのある妓以外とは、遊ぶことができない、しきたりのあることを教えられた。

「知らなかったんだから、しょうがないけど、これからは、許されないことだよ。きょうは、一度だけ、サセてあげるからネ、それで、もう帰んナ……」

おなさけで、私は、〝老醜〟のご用を仰せつかった。儲けたというべきか、損したのか……。

最後の事件記者 p.264-265 マサさんを苦界から身請けした夫

最後の事件記者 p.264-265 誰が、マサの奴に〝生き仏さま〟なンて、頭が下げられますか。奴は昔はオレの女房だったし、女郎だったンだ。
最後の事件記者 p.264-265 誰が、マサの奴に〝生き仏さま〟なンて、頭が下げられますか。奴は昔はオレの女房だったし、女郎だったンだ。

戸籍によれば、妙佼こと長沼マサ女は、明治二十二年十二月二十六日、埼玉県人長沼浅次郎の長女として、同県北埼玉郡志多見村に生れた。結婚は戸籍上二回である。

これだけの資料をもって、自動車一台とともに、埼玉、茨城両県下を、一週間にわたって走り廻った。古老たちを土地土地でたずね歩き、彼女が醜業に従事した証拠を探し出したのである。

困ったのは、彼女の同僚だったオ女郎サンを、その家庭にたずねた時である。すでに孫までいる人、しかも耳でも遠くなっていようものなら、怒鳴るような大声で、四十年前のことを、しかも他聞をはばかる遊廓のことを聞くものだから、あるところでは、息子に怒られて追出されてしまった。

もちろん、当時の銘酒屋の建物をはじめ、談話者の写真をも撮っておいたのである。意外だったのは、マサさんを苦界から身請けした第一の夫、大熊房吉さんに、口止め策がとられていなかったことだ。或は、口止めが行われていたのを、私が話させてしまったのかもしれない。大熊さんは、はじめはなかなか話そうとせず、「昔は昔だけど、今はあんなにエラクなったのだから、身分にさわる」といって、話すのをイヤがったほどだ。

それが、終いには、

『会からも、いい役につけるから、来いといわれたんですが、会に行けば、マサに頭を下げなければならない。誰が、マサの奴に〝生き仏さま〟なンて、頭が下げられますか。奴は昔はオレの

女房だったし、女郎だったンだ。そりャ、有難やと手をもめば、金になることは判っているンだけど、とても男にやァ出来ねえことだ』

と、気焔をあげる始末だった。

新興宗教の現世利益

マサさんの第一の婚姻の前には、小峰某という情夫がいて、その男のためかどうか、大正十年ごろ、彼女は茨城県境町のアイマイ屋、箱屋の酌婦となった。

境町というのは、利根川をはさんで、埼玉県関宿町に相対する宿場で、箱屋の酌婦というのは、いわば宿場女郎だ。この箱屋も主人が死んで代変りとなり、その建物は伊勢屋という小間物玩具店になっている。箱屋の娘二人は、それぞれ老令ながら生存しており、当時の酌婦二人も生きていた。

やがて彼女は、利根川を渡って、郷里の埼玉県南埼玉郡清久村に帰ってきた。といっても廃業したのではなく、同村北中曾根の銘酒屋斎藤楼に住みかえたのである。この店は同郡久喜町北中曾根三番地となって、草ぶきの飲み屋の部分だけ残っており、酌婦たちが春をひさいでいた寝室

の部分は、取壊されてしまってすでにない。

新宿慕情18-19 二幸の〝自動〟食堂

二幸のオート・マット食堂、中村屋のカリーライスと支那まんじゅう、オリンピックの洋食。伊勢丹までが、カタ気の新宿の街だ。
新宿慕情18-19 二幸のオート・マット食堂、中村屋のカリーライスと支那まんじゅう、オリンピックの洋食。伊勢丹までが、カタ気の新宿の街だ。

新宿慕情24-25 文人、墨客、悪童連

織田作・夫人の昭子さん、ドレスデン、プロイセン、田辺茂一、池島信平、扇谷正造、中野好夫、相良守峰、時枝誠記…。
織田作・夫人の昭子さん、ドレスデン、プロイセン、田辺茂一、池島信平、扇谷正造、中野好夫、相良守峰、時枝誠記…。

新宿慕情30-31 遊郭の情緒とは…やはり吉原

遊郭、赤線と呼び名は変わっても、初老たちのロマンの原点は、吉原とか洲崎パラダイスとか新宿二丁目とかに根付いている。
遊郭、赤線と呼び名は変わっても、初老たちのロマンの原点は、吉原とか洲崎パラダイスとか新宿二丁目とかに根付いている。