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読売梁山泊の記者たち p.032-033 シベリアから復員

読売梁山泊の記者たち p.032-033 「オイ、この野郎、退け!」そんな伝法な口調で怒鳴ったのは、社会部長の竹内四郎だ。井形は、人懐っこい笑顔で、ニヤリと笑って、席を立つ。
読売梁山泊の記者たち p.032-033 「オイ、この野郎、退け!」そんな伝法な口調で怒鳴ったのは、社会部長の竹内四郎だ。井形は、人懐っこい笑顔で、ニヤリと笑って、席を立つ。

戦地から復員、記者として再出発

「ナァ、ゆんべの女郎(じょろう)が、な」

三階のワン・フロアを、仕切りなしにブチ抜いた編集局は、入り口に立つと、局内全部が見渡せた。

午前十一時ごろ。まだ、夕刊はないのだが、局内は、男、男、男ばかりが、ギッシリと詰まって、電話が鳴り、怒鳴り声が響き、ワーンという音と、男臭さに満ちていた。

窓側の中央あたり、編集局長のデスクがあり、その前に政治部、その両側に、経済部、社会部。局長席の左手に、整理部と、重要な各部のデスクが並び、部長席は局長席を背にして並んでいた。

各部で、部長席だけが、肘掛椅子だ。部長のデスクに両脚をのせて、身体を深く沈ませながら、昨夜の遊廓ばなしを始めたのは、小柄ながら、精悍な顔をした、一課(殺人)担当の井形忠夫だった。

両袖机の部長の前に、片袖机が二列に向き合う、日本の事務所の典型的な配置だ。部長に近い四個の机が次長席、それにつづいて五個ぐらい、両側で十卓ぐらいが、誰の机とも定められていない、遊軍(本社詰め記者)席である。

その一番の外れでは、山田鉱一、桑野敬治などという、主力記者たちが、電話帳をめくっては、ページ数で、オイチョカブのバクチをしていた。バクチといっても、他愛のない掛け金で、コーヒー代ほどのもの…。

——まだ、午前中だというのに、部長机に足を投げ出した男が、イロばなしを声高に、また一方では、

オイチョカブで、硬貨のやり取りをしている。

シベリアから復員してきて、復社したものの、戦後入社のハリキリボーイたちの中で、社歴だけの先輩にすぎない私も、ようやく、そんな殺伐とした、編集局の風景に、馴染みだしていた。

「オイ、この野郎、退け!」

そんな伝法な口調で、井形に怒鳴ったのは、出社してきた社会部長の竹内四郎だ。井形は、振り向いて、部長の姿を認めると、人懐っこい笑顔で、ニヤリと笑って、席を立つ。

ボルサリーノかなにか、高価そうなソフト帽を冠った部長は、恰幅のいい身体に、仕立てのいい背広を着て、皮製のブリーフ・ケースを持っていた。一見、大会社の役員風で、今考えてみると、たいした年齢でもないのに、堂々たる貫禄を、シックに装っていた。

七、八十名の部下を持つ社会部長も、出社してきても、帽子や鞄を受け取る女性秘書もいないから、自分で、部長席のうしろの、帽子かけの枝にヒョイとかけざるを得ない。

太いコンクリート柱にもたれた、薄汚い水屋から、飯場の茶わんのような欠け湯呑に、ぬるいお茶を汲んで、夜学に通う給仕(坊や、と呼ばれる)が手盆でさしだす。

デスクの端っこには、ザラ原(ザラ紙をA5判ほどに断裁し、天のりしただけの原稿用紙)が積まれてある。それを四、五枚取って、井形が足をのせていたあたりを、これも自分で拭き取る。

やっと、椅子に腰を下ろし、デスク席から遊軍席へと眺め渡す。近くにいるデスク(次長のこと)

が、会釈するだけで、遊軍からは別に挨拶もない。みなそれぞれに、原稿を書いたり、電話をしていたり、新聞を読んでいたり…と、自分のことに忙しい。

読売梁山泊の記者たち p.046-047 新聞休刊日で、全舷上陸

読売梁山泊の記者たち p.046-047 書いてゆけば、キリがないほど、それぞれが、エピソードと伝説に満ちた、個性豊かな記者ばかりで、人間的には、みな、尊敬できる人たちだった。魅力があったのである。
読売梁山泊の記者たち p.046-047 書いてゆけば、キリがないほど、それぞれが、エピソードと伝説に満ちた、個性豊かな記者ばかりで、人間的には、みな、尊敬できる人たちだった。魅力があったのである。

読売争議で、活字台を守り通した、青年行動隊長の鹿子田耕三。いまでも、朝日紙の投書「声」欄で、その名前を見かける、青木昆陽こと(徳川吉宗時代の儒者で、サツマイモの権威)、青木慶一。皇室専門の小野天皇こと小野昇。山本五十六の国葬記事で、全国民を泣かせたという〝伝説〟の主、マコちゃんこと羽中田誠。〝読売三汚な〟のひとりといわれ、宿直室に住みこみ、異臭をただよわせるタローさんこと安藤太郎は、箱根の旅館の息子で、慶大卒。酒とバクチで、原稿を書く姿を見たことがない、といわれる。

書いてゆけば、キリがないほど、それぞれが、エピソードと伝説に満ちた、個性豊かな記者ばかりで、人間的には、みな、尊敬できる人たちだった。魅力があったのである。

五月五日は、年に一回の新聞休刊日で、全舷上陸と称して、社会部全員が一泊旅行で、近くの温泉に行く。クラブ詰め記者、サツ廻り記者、遊軍記者と、三大別される八十名だから、顔を合わせたことのない人もいる。それを、一堂に会させるのが、目的なのだ。

私も、のちに、親しく兄事させてもらったのだが、同じ国会遊軍の井野康彦は、園田直と松谷天光光の〝恋愛〟をスクープしたが、酒癖の悪さに定評があった。

初めは、愉しく呑み出す。中ごろから、相手のために悲憤慷慨してくれる。そのあとはケンカを売り出す——このパターンが理解できるまで、何度泣かされたことか。

バスの三、四台を連ねて、社を出発する。そこから、呑み出すのだから、旅館に着いたら、もう泥酔がいる。

遊軍長という、最古参記者が、幹事長。その下に、宴会、バクチ(麻雀とオイチョカブの設営)、酒、ケンカの四幹事がいる。最後のケンカの幹事というのは、宴会が乱れてくると、ケンカが始まる。その双方を見ながら「あれは、もう少しやらせておけ」「あれはケガ人が出るから止めろ」と、若い連中を指揮するのだ。日頃から、部内の人間関係に通じていなければ、この役は勤まらないし、自分も腕っぷしが、強くなければならない。

それを、毎回勤めるのが、冒頭に紹介した井形忠夫である。戦前の名簿を見ると、彼は文化部にいたので、驚いたものである。ケンカとバクチは、日常茶飯事であった。

竹内は、そんな一泊旅行に、堂々と愛人を同伴してきた。築地の芸者であった。宴会にこそ出なかったが、座が乱れるころには、竹内は退席してしまう。

親分肌の竹内の、面倒見の良さは、報知の社長になるや、病気でペンを持てなくなっていた(腕の病気か?)、文化部長のあと、休職していた森村正平を、報知の編集局長に迎えている。

だから、竹内の「バカヤロー!」という、大喝一声は、それなりに、社会部の秩序を保ち、部員たちの才能を、それなりに伸ばしてきていた。まさに、社会部は、〝梁山泊〟さながらの様子だった。それが、同時に、やがて、原四郎の時代に、「社会部は読売」として開花する伝統の基礎作りに、役立ったのである。