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読売梁山泊の記者たち p.046-047 新聞休刊日で、全舷上陸

読売梁山泊の記者たち p.046-047 書いてゆけば、キリがないほど、それぞれが、エピソードと伝説に満ちた、個性豊かな記者ばかりで、人間的には、みな、尊敬できる人たちだった。魅力があったのである。
読売梁山泊の記者たち p.046-047 書いてゆけば、キリがないほど、それぞれが、エピソードと伝説に満ちた、個性豊かな記者ばかりで、人間的には、みな、尊敬できる人たちだった。魅力があったのである。

読売争議で、活字台を守り通した、青年行動隊長の鹿子田耕三。いまでも、朝日紙の投書「声」欄で、その名前を見かける、青木昆陽こと(徳川吉宗時代の儒者で、サツマイモの権威)、青木慶一。皇室専門の小野天皇こと小野昇。山本五十六の国葬記事で、全国民を泣かせたという〝伝説〟の主、マコちゃんこと羽中田誠。〝読売三汚な〟のひとりといわれ、宿直室に住みこみ、異臭をただよわせるタローさんこと安藤太郎は、箱根の旅館の息子で、慶大卒。酒とバクチで、原稿を書く姿を見たことがない、といわれる。

書いてゆけば、キリがないほど、それぞれが、エピソードと伝説に満ちた、個性豊かな記者ばかりで、人間的には、みな、尊敬できる人たちだった。魅力があったのである。

五月五日は、年に一回の新聞休刊日で、全舷上陸と称して、社会部全員が一泊旅行で、近くの温泉に行く。クラブ詰め記者、サツ廻り記者、遊軍記者と、三大別される八十名だから、顔を合わせたことのない人もいる。それを、一堂に会させるのが、目的なのだ。

私も、のちに、親しく兄事させてもらったのだが、同じ国会遊軍の井野康彦は、園田直と松谷天光光の〝恋愛〟をスクープしたが、酒癖の悪さに定評があった。

初めは、愉しく呑み出す。中ごろから、相手のために悲憤慷慨してくれる。そのあとはケンカを売り出す——このパターンが理解できるまで、何度泣かされたことか。

バスの三、四台を連ねて、社を出発する。そこから、呑み出すのだから、旅館に着いたら、もう泥酔がいる。

遊軍長という、最古参記者が、幹事長。その下に、宴会、バクチ(麻雀とオイチョカブの設営)、酒、ケンカの四幹事がいる。最後のケンカの幹事というのは、宴会が乱れてくると、ケンカが始まる。その双方を見ながら「あれは、もう少しやらせておけ」「あれはケガ人が出るから止めろ」と、若い連中を指揮するのだ。日頃から、部内の人間関係に通じていなければ、この役は勤まらないし、自分も腕っぷしが、強くなければならない。

それを、毎回勤めるのが、冒頭に紹介した井形忠夫である。戦前の名簿を見ると、彼は文化部にいたので、驚いたものである。ケンカとバクチは、日常茶飯事であった。

竹内は、そんな一泊旅行に、堂々と愛人を同伴してきた。築地の芸者であった。宴会にこそ出なかったが、座が乱れるころには、竹内は退席してしまう。

親分肌の竹内の、面倒見の良さは、報知の社長になるや、病気でペンを持てなくなっていた(腕の病気か?)、文化部長のあと、休職していた森村正平を、報知の編集局長に迎えている。

だから、竹内の「バカヤロー!」という、大喝一声は、それなりに、社会部の秩序を保ち、部員たちの才能を、それなりに伸ばしてきていた。まさに、社会部は、〝梁山泊〟さながらの様子だった。それが、同時に、やがて、原四郎の時代に、「社会部は読売」として開花する伝統の基礎作りに、役立ったのである。

読売梁山泊の記者たち p.050-051 竹内は〝慶応ボーイ〟でありながら

読売梁山泊の記者たち p.050-051 竹内四郎が、読売社会部長として果たした、功績は大きい。この戦後の混乱期に、戦前の、社会部、東亜部などに名を列ねていた、一匹狼のサムライたちに、敗戦の打撃の中に方向を与え、秩序を回復していった
読売梁山泊の記者たち p.050-051 竹内四郎が、読売社会部長として果たした、功績は大きい。この戦後の混乱期に、戦前の、社会部、東亜部などに名を列ねていた、一匹狼のサムライたちに、敗戦の打撃の中に方向を与え、秩序を回復していった

竹内は、いうなれば〝慶応ボーイ〟でありながら、古いプロレスラーのグレート東郷を、二まわりも、三まわりも大きくしたような、頑丈な短躯に猪首で、四角い顔が乗っていた。

だが、竹内四郎が、読売社会部長として果たした、功績は大きい。この戦後の混乱期に戦前の、社会部、東亜部などに名を列ねていた、一匹狼のサムライたちに、敗戦の打撃の中に方向を与え、秩序を回復し、レッド・パージの動揺、正力松太郎の巣鴨プリズンの収容などといった、大事件を無事乗り切っていったからである。

塚原正直は、ガダルカナル島から帰ってきて、入社早々の私たちに、チョロッと動いた小さなトカゲの一匹に、四、五人の兵隊が飛びつく〝飢え〟を語ってくれた。

辻本芳雄は、マニラの敗走について、修羅場を経てきた〝人間〟のありようを、教えてくれた。

それらの話の、いずれもが、軍の言論統制に対する、<新聞記者>としての、やり場のない憤りであった。

それにつづいての、今度は、占領軍の言論統制が、検閲制度である。真実が書けない、真実が語れない、その苦しさが、戦後の新聞記者たちを、〝エンピツやくざ〟へと、追いこんでいった。

警視庁記者クラブばかりか、裁判所の中の記者クラブでも、麻雀、花札のバクチが、大っぴらに行われていた。

警視庁の経済課長が、毎日の警視庁詰めキャップと組んで、砂糖のヤミをやった。ヤミ砂糖を押収したのに、それを横流ししたのである。

街では、「第三国人」と呼ばれた、朝鮮人や台湾人が、団結してヤミ経済を支配し、また暴力事件を続発させていた。さらに、武力革命を目指した共産党は、〝血のメーデー〟事件を皇居前広場に演出したし、〝新宿火焰ビン広場事件〟もまた、血なま臭いものであった。

そして、多くの記者たちが、絶望したり、転向したりして、その名を、社員名簿から消していった。その時期の社会部長が、竹内四郎だったのである。

そして、朝連解散の号外落ちの責任で、私は、本社の遊軍勤務に異動させられる。復職以来、遊軍半年、サツ廻り半年、司法クラブ一年と、すでに二年も経過して、私は、第一線記者として、バリバリ仕事をしていた。

そして、二十四年十月になると、本社遊軍兼国会遊軍という、恵まれた待遇(というのは、時間も勤務もまったく自由)になって、酒癖の悪い井野康彦のアシスタントを勤める。

この国会遊軍のおかげで、私は、政治の世界に興味を持ちはじめる。社内でも、政治部、経済部へとカオが広くなってきた。

この時期の、忘れられない人物が、政治部のデスクだった筒井康である。歴史に有名な「洞ヶ峠の順慶」という、安土桃山時代の武将の裔である。日本歴史大辞典によれば、筒井順慶は、謡曲、茶の湯にすぐれ、教養豊か、とあるが、筒井デスクもそんな感じで、私を可愛がってくれた。

戸川猪佐武などは、筒井デスクのまわりをウロチョロしている存在だった。筒井は、のちに佐藤栄作のブレーンのひとりになって社を辞め、早逝した。