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赤い広場ー霞ヶ関 p.184-185 「自由党は割れるヨ」

赤い広場ー霞ヶ関 p.184-185 The Soviet Union thought that Japan-Soviet negotiations would never be held under the Yoshida Liberal Party administration. Therefore, they worked to create the Hatoyama administration.
赤い広場ー霞ヶ関 p.184-185 The Soviet Union thought that Japan-Soviet negotiations would never be held under the Yoshida Liberal Party administration. Therefore, they worked to create the Hatoyama administration.

そして、今にいたるも、この六十数名は明らかにされていない。そして、六十数名というの

が「山本調書」の全貌なのである。私が、今までに明らかになし得たのは、その一部にすぎないが、その重要な部分であることには間違いない。

二 怪物久原と立役者メンシコフ

昭和二十七年の秋、ある元ソ連代表部員がある人に向ってこういったことがある。

『自由党は割れるヨ。割るものは、キッと、石橋か大野だろう』

この短かい言葉が、誰と誰との間で話されたかということを、ここで伏せねばならないのは残念である。しかし、語った人が元ソ連代表部員であるということは、いろいろなことを考えさせる。

〝自由党は割れる〟という、この観測の根拠となった彼の情勢分析は、何かということである。これが、〝割れるようにしてある〟でなければ幸いである。

ソ側の判断では、吉田自由党政権のもとでは、絶対に日ソ交渉は開かれないとみていた。これは当然である。そのためには旧改進党勢力を中心とする、保守政権を期待せざるを得ないのである。

左右両派社会党が、どんなに口惜しがろうと、ソ同盟共産党小史をひもとくまでもなく、共産党の人民民主主義に対する、社会党の社会民主主義は相容れないのである。

共産党がボリシェヴィキであり、社会党はメンシェヴィキである。ボリシェヴィキは「敵」である保守党とは、戦術的に握手して、その目的を達成したのち、これを「敵」として屠るがメンシェヴィキとは握手することは許されない。

第一集「迎えにきたジープ」の「招かれざるハレモノの客」の中で、ソ連の対日工作に三段階があったことを述べた。二十六年十一月二日、ドムニッキー通商代表とマミン経済顧問とが国会を訪問したことがある。それから五日後の七日の革命記念日には、元代表部でパーティーが開かれ、改進党代議士諸公の主要な人物には、個人招待状が送られていたのである。

そして、自由党が割れ、鳩山政権が生れるや、直ちに日ソ交渉のための、鳩山・ドムニッキー会談のお膳立が進められた。そして交渉地ロンドンが正式決定して、交渉が開始されるまで僅か半年である。これはなぜか。もちろん、鳩山内閣の短命を見越しているのである。鳩山内閣時代にソ側の狙う実績だけを、稼いでおかねばならないからである。

さて、ここで問題は日ソ国交回復国民会議会長久原房之助氏と、ソ連駐印大使、エカフェ代表メンシコフ氏という、二人の大物の登場となる。 ソ連の対日工作は、まず経済工作に始まった。モスクワ国際経済会議に、シベリヤ・オルグを使って、高良とみ女史を誘いこんでからというものは、軌道に乗って順調にすべり出した。