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読売梁山泊の記者たち p.052-053 エモノは参院議員だった

読売梁山泊の記者たち p.052-053 今井の信念は、シャッターチャンスは一回だけ。ただ一発のフラッシュをナメながらチャンスを待つ。そして閃光一発。他社カメラマンを尻目に、悠々と車にもどるという芸当であった。
読売梁山泊の記者たち p.052-053 今井の信念は、シャッターチャンスは一回だけ。ただ一発のフラッシュをナメながらチャンスを待つ。そして閃光一発。他社カメラマンを尻目に、悠々と車にもどるという芸当であった。

このころ、住宅事情はもちろんのこと、ホテルとて十分ではなかったので、国税で賄われていた議員会館(現在のようなビルではなく、木造モルタル二階建て)を温泉マークの代用にして、〝女を連れこむ秘書〟がいるようだ、という噂を耳にした。

早速、私の張りこみがはじまった——かかったエモノは、参院議員だった。流行の、肩の張ったギャバジンのコートの、水商売風の女性を連れて、裏口から会館に入ろうとして、衛視に咎められたのだ。

もちろん、深夜である。女を待たせて、正面玄関へ、威張りくさった態度で、抗議をしようとした男は、植えこみから立ち上がったカメラマンに仰天した。

駈け戻って、女の手を引き、三宅坂方向へ逃げ出す。編集局自動車部員は、鷺谷栄一。事件の時は、心強い味方だ。運転手といえども、先輩だから、敬語を使わねばならない。写真部は今井靖男、なかなかの〝職人〟だった。

そのころの自動車部員は、やはり、サムライが多かった。事件現場などでは、駈け出しの記者に、顔写真取り(被害者の顔写真を探す)の注意を与えたり、社への連絡電話の確保とか、編集局所属だけに、経験からの忠告ができるのだ。

写真の今井は、いま時のカメラマンのように、やたらと、バチバチ、シャッターを押さない。もちろん、機材も違って、スピグラ(スピード・グラフィック)というカメラ。今井の信念は、シャッターチャンスは一回だけ。だから、現場につくと、ただ一発のフラッシュガンを片手に握り、点火を確

実にするため、差し込み部分をナメながらチャンスを待つ。そして閃光一発。他社カメラマンがひしめきつづけるのを尻目に、悠々と車にもどるという芸当であった。

今井と私が、車に飛びこんで、「鷺ちゃん、あの二人を追ってくれ」と、叫ぶ。車が急発進して、いまだに、手に手を取り合って走る二人を見つけた。

「二人に追いついたら、急カーブを切って、前に出てくれ。その時に、撮るから」

今井の言葉に、鷺谷がうなずく。三宅坂近くで、追い抜きざま、車窓からフラッシュが閃いた。

そのころの車には、暖房がない。七輪に炭火を入れて、張りこみの暖をとるのだが、急カーブに、七輪がころげて、車内に炭火が散乱する。私は、あわてて、それを拾う。

「どうだい?」「ウン、パツイチさ」

車を再び、参議院会館に戻して、私は、衛視室に入り、「さっきの先生は誰?」と、身許しらべだ。写真は、車で社へ帰す。今井が自信があるというから、安心だ。

社に上がって、写真部に行くと、暗室には、もう、走っている二人のポジが、ブラ下がっていた。

「明朝、キッと自民党のエライさんが、モミ消しにくるから、夕刊の一版から入れよう。オレも、これから原稿を書いてしまうよ」

そして、早版から社会面のトップに、「噂の議員会館・門限後潜入記、流行オーバーの女、深夜の訪問、男にかばわれて遁走」と、二人の顔が、バッチリ写った写真入りの記事が飾られた。

写真の今井。あの急カーブを切る車窓からの一発で、バチッときめた男は、職人だけに酒好き。共

同通信でデスク・クラスのカメラマンであったが、酒の上でのケンカで、椅子を相手に投げつけて、片眼を失明させてしまった。酔いさめた今井は、退職金の全額を相手に贈って詫び、裸で読売に入社したのだという。昭和二十九年五月の名簿まで、名前が出ているが、翌年は消えている。その後の消息はきかない——。

読売梁山泊の記者たち p.054-055 越野賢二はもと社会部警視庁キャップ

読売梁山泊の記者たち p.054-055 部長席に、キザなジジイがいるナ、と思いながら、伝票を出して、「東大まで」といった。運転手に、〝社員の先輩〟がいるなどとは、露知らぬ私の態度は〝動作がデカかった〟みたいである。
読売梁山泊の記者たち p.054-055 部長席に、キザなジジイがいるナ、と思いながら、伝票を出して、「東大まで」といった。運転手に、〝社員の先輩〟がいるなどとは、露知らぬ私の態度は〝動作がデカかった〟みたいである。

写真の今井。あの急カーブを切る車窓からの一発で、バチッときめた男は、職人だけに酒好き。共

同通信でデスク・クラスのカメラマンであったが、酒の上でのケンカで、椅子を相手に投げつけて、片眼を失明させてしまった。酔いさめた今井は、退職金の全額を相手に贈って詫び、裸で読売に入社したのだという。昭和二十九年五月の名簿まで、名前が出ているが、翌年は消えている。その後の消息はきかない——。

写真部長の三輪大三、自動車部長の越野賢二——ともに、強烈な個性の持ち主だった。社会部と写真部、自動車部は、三位一体で動く運命共同体のような関係だった。

その点、政治部や経済部は、車を、単なる足としてしか考えない。写真部も、必要な時にしか、同行しない。同行するよりも、予定を申しこんで、会見などの時に呼ぶ、といった関係だ。

だから、〝事件の社会部〟には、ヒラでもA級のカメラマンを出し、社員の運転手をつける。いずれも、取材のパートナーなのだ。従って、出てきた結果は、成否、いずれにせよ、共同責任である。

厳本メリーが、ストラデバリウスを盗まれたことがあった。そのニュースに、厳本家に出かけた記者とカメラマンは、彼女が外出中で、帰宅の時間が不明というので、「せっかくの特ダネなのに…」と、困惑した。

その様子を見た妹さんが、「私は、姉にソックリといわれてます。横顔なら、姉の身代わりができますわ」と、好意の申し出をしたものである。

〝嘆きの厳本メリーさん〟という、写真つきの記事が大きく掲載された——と、朝刊が出て間もなく、

読者から、「アレは妹だ」という指摘があって、問題は表面化した。

カメラマン、記者ともに処分された。記憶は定かではないが、罰俸だったと思う。その辞令を見ながら、私たちは、ニセモノと承知で写真を撮ったカメラマンは、当然、処分されるべきだが、ナゼ、記者も処分されるのかと、カンカンガクガクの議論をしていた。

写真部長の〝大三親分〟(彼は、これまた小兵ながら、その鼻ッ柱の強さで、こう呼ばれていた)が、社会部の遊軍席に寄ってきて「当たり前だ。写真部が、間違いを犯す時に事情を知っていて、止めさせないのだから、共同正犯サ」と、社会部と写真部のつながりの強さを教えてくれた。

この大三親分と、社会部の次席次長の大木正とが、夜の編集局で、大ゲンカをしているのを、目撃したことがある。電話器を投げつけ、椅子を振り上げ、取っ組み合ったところで、止めが入ったのだが、チンピラ記者の私などは、呆然と立ちすくんでいたのだった。

自動車部長の越野賢二は、もと社会部警視庁キャップであった。昭和十八年の名簿を見ると、航空部の筆頭部員として名前がある。その後、社会部へ移ったのだろうか。昭和二十三年の名簿では、すでに自動車部長である。

帝銀事件が起き、被害者の司法解剖が、東大法医学教室であるというので、その取材をデスクに命じられて、私は、自動車伝票を持って、自動車部に行った。部長席に、キザなジジイがいるナ、と思いながら、伝票を出して、「東大まで」といった。運転手に、〝社員の先輩〟がいるなどとは、露知らぬ私の態度は〝動作がデカかった〟みたいである。