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読売梁山泊の記者たち p.034-035 二ページ一枚ペラの時代

読売梁山泊の記者たち p.034-035 まさに、〝鉛筆ヤクザ〟そのものであった。それは、新聞ではあったが、決して、ジャーナリズムでも、マスコミでもなかった。
読売梁山泊の記者たち p.034-035 まさに、〝鉛筆ヤクザ〟そのものであった。それは、新聞ではあったが、決して、ジャーナリズムでも、マスコミでもなかった。

やっと、椅子に腰を下ろし、デスク席から遊軍席へと眺め渡す。近くにいるデスク(次長のこと)

が、会釈するだけで、遊軍からは別に挨拶もない。みなそれぞれに、原稿を書いたり、電話をしていたり、新聞を読んでいたり…と、自分のことに忙しい。

部長に会いたくなければ、部長が編集局の入り口に現われたら、裏階段から、お茶をのみに出かけてしまえば、それで済む。

まったく、満目緑草中紅一点で、女性ときたら、文化部にひとりかふたり、しかも、妙齢をはるかに過ぎたほどの人だ。まだ、婦人部もないころだった。

男ばかりの生活だから、机のカゲには、下げ忘れた出前の皿がホコリをかぶり、夜にはネズミが走りまわる。

不揃いの机が並び、電話線を、床と空間にめぐらせ、伝言ビラがブラ下がり、決まった自分の席さえもない職場である。

こうした情景は、いまの大手町の清潔な社屋にいる記者諸君には、想像を絶するものがあろう。まさに、〝鉛筆ヤクザ〟そのものであった。

それは、新聞ではあったが、決して、ジャーナリズムでも、マスコミでもなかった。もしかしたら、〝新聞屋〟であったかも知れない。新聞は、ニューズ・ペーパーであったことは、確かである。

しかし、昭和十八年の、たぶん戦前最後の「読売新聞社職員名簿」を見ると、まず、参事、副参事といった、身分制がある。欧米部と東亜部があって、軍の要請(というより、命令であろうか)で、その戦火の拡大とともに、支局、通信部が、アジア全域に展開していることがわかる。

当時の新聞記者は、新聞記者である以前に軍の報道班員であったのである。私も、同期の青木照夫(報知編集局長で57・3・21没)が、入隊のため長崎に帰るのを見送って東京駅で別れるとき、「オイ、陸軍報道部付将校として、再会しようじゃないか」と、握手したのを記憶している。

〝皇軍の聖戦の大勝利〟の原稿を書き続けていた人たちが、いのちからがらに逃げ帰って空襲に社屋を焼かれ、転々としながら、ようやく、有楽町駅前の「そごう」の旧ビルに、「読売報知新聞」(戦時中の統合)の題号から、「読売新聞」に戻ったところだった。そごうのビルは、報知の社屋だった。

戦時中の学生時代、私にとってバイブルは「小山栄三・新聞論」であった。「社会の木鐸」などという言葉は、その本の中にあったかも知れないし、なかったかも知れない。

衣食住ともに、まだまだ厳しく、新聞用紙は割当制で日刊紙でも大判二ページ。一枚ペラの時代だった。

十八年の名簿の休職の項に、青木、三田、山根と、三人の同期生が出ており、現役の末尾に高橋、金口、福手と、これまた同期が三人いる。このほか、整理部の末尾に、徳間康快の名前が見える。あと三人、同期生がいるハズだが、記憶が消えた。

二十三年の名簿では、山根、福手、徳間の名前がなくなり、青木、高橋の二人が、依然として休職。シベリアから、まだ、帰ってこなかったのだ。

私は、二十二年十月末、将校梯団の第二陣で帰っていたので、第二次争議の真っ最中に中国から復

員した金口とふたり、この名簿に載ることができた。

読売梁山泊の記者たち p.036-037 「なんか書くか、イヤ、書けるか」

読売梁山泊の記者たち p.036-037 復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。
読売梁山泊の記者たち p.036-037 復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。

私は、二十二年十月末、将校梯団の第二陣で帰っていたので、第二次争議の真っ最中に中国から復

員した金口とふたり、この名簿に載ることができた。

十八年の名簿を繰ると、一時間も二時間も、時間のたつのを忘れてしまう。それだけ、思い出の多い、新聞記者初年兵であった。そしてまた、二十三年の名簿でも、翌年には、名前が無くなって、消息すら不明の人に、想いをはせてしまう。

やはり、私の五十年に及ぶ文筆生活にとって、読売新聞は、〈母なる故郷〉なのだ。

こうして、私の記者としての再出発が、始まった。感激したのは、読売が七十五円ほどの月給の、三分の一だかを、留守宅の母あてに送金していてくれたことだった。

当時の戦局を想うと、生きて再び、読売に復職できるとは、予想すらできなかった。だから、何着かあった背広も、入隊の前日までに、すべて質屋に入れて、飲んでしまっていたのである。

それを、母が、読売の送金で、請けだしていてくれたのだった。だから、社会部員の多くが、軍服やら、国民服(戦時中の制服みたいなもの)やらの、〝弊衣〟ばかりなのに、私だけは、リュウとした 背広姿だった。

それは、総務課の女の子や、受付係、交換台などの女性たちには、目立つ存在だった、とウヌボレている。もちろん、背広だけではない。帰り新参のクセには、良く原稿を書いていたこともある。

復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。

四番次長だった森村正平も、筆頭次長だった竹内と同じく、私を覚えていてくれた。

「なんか書くか、イヤ、書けるか」

筆頭次長になっていた森村は、そういい出して、私のはじめての署名原稿「シベリア印象記」が、二面の社会面の大半を埋めて、記事審査委も、「良く書けてる」と、賞めてくれた事も、社内でカオが広まった原因のひとつであろう。

「ネェ、文化部長の原さんて、素敵ネ」

のちに、婦人部の記者となった井上敏子、同じく、報知文化部の記者になった石上玲子、のふたりの総務課の女性とお茶を飲んでいたとき、石上がいいだした。

「文化部長の原さん?  どんな人?」

「アラ、知らないの。背の高い、洋服のセンスもいいし、いかにも、中年の紳士って感じの人よ」

「アア、あれが文化部長か! フーン…」

私は、そういわれて、はじめて、あの人物が、文化部長だ、と知った。

というのは、原四郎を初めて見た時の、強烈な印象が残っているのだった。いま、銀座の社屋は、読売ビルとして、デパートのプランタンが入っているが、当時は、戦災の焼けビルを修理したぼろビル。

目の前は、都電通りをはさんで、ドブ川さながらの濠で、道路と濠の間に、バラックの飲み屋が並んでいた。濠の向こう側と有楽町駅の間も、すし屋横丁など、バラックの飲み屋街だった。

読売梁山泊の記者たち p.054-055 越野賢二はもと社会部警視庁キャップ

読売梁山泊の記者たち p.054-055 部長席に、キザなジジイがいるナ、と思いながら、伝票を出して、「東大まで」といった。運転手に、〝社員の先輩〟がいるなどとは、露知らぬ私の態度は〝動作がデカかった〟みたいである。
読売梁山泊の記者たち p.054-055 部長席に、キザなジジイがいるナ、と思いながら、伝票を出して、「東大まで」といった。運転手に、〝社員の先輩〟がいるなどとは、露知らぬ私の態度は〝動作がデカかった〟みたいである。

写真の今井。あの急カーブを切る車窓からの一発で、バチッときめた男は、職人だけに酒好き。共

同通信でデスク・クラスのカメラマンであったが、酒の上でのケンカで、椅子を相手に投げつけて、片眼を失明させてしまった。酔いさめた今井は、退職金の全額を相手に贈って詫び、裸で読売に入社したのだという。昭和二十九年五月の名簿まで、名前が出ているが、翌年は消えている。その後の消息はきかない——。

写真部長の三輪大三、自動車部長の越野賢二——ともに、強烈な個性の持ち主だった。社会部と写真部、自動車部は、三位一体で動く運命共同体のような関係だった。

その点、政治部や経済部は、車を、単なる足としてしか考えない。写真部も、必要な時にしか、同行しない。同行するよりも、予定を申しこんで、会見などの時に呼ぶ、といった関係だ。

だから、〝事件の社会部〟には、ヒラでもA級のカメラマンを出し、社員の運転手をつける。いずれも、取材のパートナーなのだ。従って、出てきた結果は、成否、いずれにせよ、共同責任である。

厳本メリーが、ストラデバリウスを盗まれたことがあった。そのニュースに、厳本家に出かけた記者とカメラマンは、彼女が外出中で、帰宅の時間が不明というので、「せっかくの特ダネなのに…」と、困惑した。

その様子を見た妹さんが、「私は、姉にソックリといわれてます。横顔なら、姉の身代わりができますわ」と、好意の申し出をしたものである。

〝嘆きの厳本メリーさん〟という、写真つきの記事が大きく掲載された——と、朝刊が出て間もなく、

読者から、「アレは妹だ」という指摘があって、問題は表面化した。

カメラマン、記者ともに処分された。記憶は定かではないが、罰俸だったと思う。その辞令を見ながら、私たちは、ニセモノと承知で写真を撮ったカメラマンは、当然、処分されるべきだが、ナゼ、記者も処分されるのかと、カンカンガクガクの議論をしていた。

写真部長の〝大三親分〟(彼は、これまた小兵ながら、その鼻ッ柱の強さで、こう呼ばれていた)が、社会部の遊軍席に寄ってきて「当たり前だ。写真部が、間違いを犯す時に事情を知っていて、止めさせないのだから、共同正犯サ」と、社会部と写真部のつながりの強さを教えてくれた。

この大三親分と、社会部の次席次長の大木正とが、夜の編集局で、大ゲンカをしているのを、目撃したことがある。電話器を投げつけ、椅子を振り上げ、取っ組み合ったところで、止めが入ったのだが、チンピラ記者の私などは、呆然と立ちすくんでいたのだった。

自動車部長の越野賢二は、もと社会部警視庁キャップであった。昭和十八年の名簿を見ると、航空部の筆頭部員として名前がある。その後、社会部へ移ったのだろうか。昭和二十三年の名簿では、すでに自動車部長である。

帝銀事件が起き、被害者の司法解剖が、東大法医学教室であるというので、その取材をデスクに命じられて、私は、自動車伝票を持って、自動車部に行った。部長席に、キザなジジイがいるナ、と思いながら、伝票を出して、「東大まで」といった。運転手に、〝社員の先輩〟がいるなどとは、露知らぬ私の態度は〝動作がデカかった〟みたいである。