対ソ資料の全くなかったアメリカが、旧軍人に協力を要請したことはさきに述べた通りだが、その初期はあくまで要請であって、二十一年十二月と翌年
一月の引揚四船の入港時には、日本政府の復員官の身分で、給与は終戦処理費の秘密費というような旧軍人顧問団を抱えていた。
しかし、二十二年四月から引揚の本格化と同時に、対ソ資料整備も本格化し、日本人ソ連通の大動員を行った。それは作戦や情報の参謀、憲兵、特務機関員、特高警察官などで、正式にG—2の嘱託として採用したのだった。
これらの日本人は純粋な技術者として、割り切って米国機関に働らいていた人が多いようである。最盛期には数百名の〝技術者〟たちが働らいていたが、二十八年はじめ大多数が解雇され、再編成された。現在でも働らいている人は、全く信用があり、しかも高度の技術を持っている僅かな人たちである。
これら日本人技術者の編成のあとをみることによって、NYKビルの実態は推断されるだろうと思う。(ここに推断という言葉を使ったことには意味があって、従ってあくまで私の主観による判断であることをお断りしておかねばならない)
舞鶴の項で述べた通り、その対ソ資料収集機関は、HM、LS、CIC、CIEなどであったが、二十二年四月から始まって、二十三年には大体の基礎が出来上り、二十四年からは最高度に機能を発揮した。
この組織は舞鶴—東京ルートである。フェーズ(Phase )ⅠからⅡまでに分れている。フェーズⅠはカードで引揚者を分類する。この段階でひっかかった人数は七万名、フェーズⅡはⅠでチェックしたものをさらに選択して、四万五千名を抜き出した。フェーズⅡはさらにこの四万五千名を再訊問して、約一万名にしぼったのである。結論として、一万名の有力なるソ連スパイを摘発したのだった。
また一方、この引揚者情報を整理するTP(都市計画班 Town plan Unit )があった。〝マイズル基地〟に配置された旧軍人は、TP一ヶ班、フェーズⅡには樺太、千島に詳しい瀬野赳元大佐(34期)の他、元大佐二、元少佐一、元大尉一などの七名、CICの前田元大佐、CIEの志位元少佐らであった。
これに直結する東京のNYKビルには、TPに数十名、フェーズⅡに五名、山崎グループ四名、これは山崎重三郎元中佐(43期)を長とする中共班である。元ハルビン特機員、「ソ連研究」編集長丸山直光氏ら二名の文諜班、元第十八軍(ニューギニヤ)参謀長吉原矩元中将(27期)らの兵要地誌班が五、六名、海軍関係数名といった陣容だった。この他に元大本営作戦課長服部卓四郎元大佐(34期)らの戦史課六名がいる。この陣容も二十六年になると、TP班三十五、山崎班六、吉原班十、海軍四、戦史班六に整理された。